池田先生とトインビー博士との対談より(集団的自衛権も個別的自衛権も認めていません)
(「21世紀への対話 下」 A・J・トインビー 池田大作 84頁より抜粋)
池田 相互防衛、集団安全保障という考え方は、侵略主義の脅威に対して防衛的な価値をもつものとして生まれたものでした。しかし、現実には何らの効果も発揮できなかったばかりか、むしろ、二度にわたる世界大戦を生んだのも、じつはほかならぬ、この相互防衛ないし集団安全保障という倫理でもあったということが、結果的にいえるわけです。
(「21世紀への対話 下」 A・J・トインビー 池田大作 89頁~91頁より抜粋)
池田 歴史時代に入って以来、およそ国家と名のつくあらゆる国は、自衛のためと称して武力をもってきたと思います。武力は国家の力の代表のようにさえ考えられてきたようです。現代も、それは例外ではありません。というより、むしろ現代に至って、科学技術の発達により、武力はかつて想像もしなかったほど強大になり、それに要する出費は膨大なものになっております。
とくに、米ソ英仏中のいわゆる核大国が装備している武力は、他国による侵略の防衛という概念をはるかに越えて、もしその力が行使されれば相手国はもちろんのこと、自国を含めた地球上の全人類の生存を脅かす規模と質のものになっております。もはや現代における武力は、既成の、歴史的に馴れ親しんできた防衛力という考え方とは異質のものになってしまっている、と考えなければならないでしょう。つまり、武力をもつ大義名分は、現代においては、すでにその根拠を失ってしまったと私は考えるのです。
トインビー 世界が約百四十の地方主権国家に分割されている現在の国際構造下で、最も効果ある国家自衛手段とは、物理的軍備の保有と軍隊の保持とを、すべて放棄することです。ただし、この場合、例外とすべきは、最小限の武器使用をもって各国内の法と秩序の維持にあたる、国家警察軍(※1)の存在でしょう。
他の地方主権国からの攻撃に備える、防衛のための軍備と軍隊を放棄するには、もちろん、本質的に他国を傷つけるような、また他国政府に正当な苦情の根拠を与えるような、国家的行動、政策を放棄しなければなりません。
ほとんどの政府が、そしてほとんどの個人が、今日、地方主権国間での、一国による他国攻撃が罪悪であることを認めています。戦争目的のためにつくられた国家の省庁や国家予算が、今日では一般に”戦争省”とか”戦争予算”とかの名称をもたず、ましてや”侵略省”とか”侵略予算”などと呼ばれず、”国防省”とか”国防予算”などと名づけられていますが、これは意味深長なことです。
池田 おっしゃる通りであり、国防のためだから、国民の税金を軍備の拡充のために注ぐのは当然だという、政府・権力者の言い分は、まやかしにすぎません。それにもまして悪質なのは、国を防衛するためといって、青年たちに生命を犠牲にすることを求めるペテン行為です。その”まやかし””ペテン”を最も象徴的にあらわしているのが”国防省”・・・日本の場合ですと”防衛庁”・・・であり、”国防予算””防衛予算”という名称です。なぜなら政治権力の多くは、この”防衛”を口実につくりあげた軍事力によって”侵略”を行ない、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと叩き込んできたのですから・・・。本当に”防衛”のためだった例は、きわめてまれでしかなかったのではないでしょうか。
(※1)国家警察軍とは、軍隊とは違い他国への攻撃を認めておらず、自国の防衛のみに従事する警察軍である。その行為を日本では専守防衛という。
池田 相互防衛、集団安全保障という考え方は、侵略主義の脅威に対して防衛的な価値をもつものとして生まれたものでした。しかし、現実には何らの効果も発揮できなかったばかりか、むしろ、二度にわたる世界大戦を生んだのも、じつはほかならぬ、この相互防衛ないし集団安全保障という倫理でもあったということが、結果的にいえるわけです。
(「21世紀への対話 下」 A・J・トインビー 池田大作 89頁~91頁より抜粋)
池田 歴史時代に入って以来、およそ国家と名のつくあらゆる国は、自衛のためと称して武力をもってきたと思います。武力は国家の力の代表のようにさえ考えられてきたようです。現代も、それは例外ではありません。というより、むしろ現代に至って、科学技術の発達により、武力はかつて想像もしなかったほど強大になり、それに要する出費は膨大なものになっております。
とくに、米ソ英仏中のいわゆる核大国が装備している武力は、他国による侵略の防衛という概念をはるかに越えて、もしその力が行使されれば相手国はもちろんのこと、自国を含めた地球上の全人類の生存を脅かす規模と質のものになっております。もはや現代における武力は、既成の、歴史的に馴れ親しんできた防衛力という考え方とは異質のものになってしまっている、と考えなければならないでしょう。つまり、武力をもつ大義名分は、現代においては、すでにその根拠を失ってしまったと私は考えるのです。
トインビー 世界が約百四十の地方主権国家に分割されている現在の国際構造下で、最も効果ある国家自衛手段とは、物理的軍備の保有と軍隊の保持とを、すべて放棄することです。ただし、この場合、例外とすべきは、最小限の武器使用をもって各国内の法と秩序の維持にあたる、国家警察軍(※1)の存在でしょう。
他の地方主権国からの攻撃に備える、防衛のための軍備と軍隊を放棄するには、もちろん、本質的に他国を傷つけるような、また他国政府に正当な苦情の根拠を与えるような、国家的行動、政策を放棄しなければなりません。
ほとんどの政府が、そしてほとんどの個人が、今日、地方主権国間での、一国による他国攻撃が罪悪であることを認めています。戦争目的のためにつくられた国家の省庁や国家予算が、今日では一般に”戦争省”とか”戦争予算”とかの名称をもたず、ましてや”侵略省”とか”侵略予算”などと呼ばれず、”国防省”とか”国防予算”などと名づけられていますが、これは意味深長なことです。
池田 おっしゃる通りであり、国防のためだから、国民の税金を軍備の拡充のために注ぐのは当然だという、政府・権力者の言い分は、まやかしにすぎません。それにもまして悪質なのは、国を防衛するためといって、青年たちに生命を犠牲にすることを求めるペテン行為です。その”まやかし””ペテン”を最も象徴的にあらわしているのが”国防省”・・・日本の場合ですと”防衛庁”・・・であり、”国防予算””防衛予算”という名称です。なぜなら政治権力の多くは、この”防衛”を口実につくりあげた軍事力によって”侵略”を行ない、他国民も自国民も、ともに苦難のどん底へと叩き込んできたのですから・・・。本当に”防衛”のためだった例は、きわめてまれでしかなかったのではないでしょうか。
(※1)国家警察軍とは、軍隊とは違い他国への攻撃を認めておらず、自国の防衛のみに従事する警察軍である。その行為を日本では専守防衛という。





