当初より改竄されていた書籍③ (第33回本部総会 B面 池田先生スピーチ)

人間勝利の大文化めざして
昭和45年5月3日
第33回本部総会
東京・日大講堂



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注)池田先生のご指導を読まれる前に以下の事を念頭に入れておいて下さい。
1.この時代は僧俗和合の時代で、富士大石寺は日蓮大聖人様の仏法を正しく広めるための「*三宝」を実戦する本山でした。しかし、その後三毒に支配され、私たち創価学会員の心血を込めてご供養し建立した正本堂を無残にも破戒し尽くし、池田先生と私たちを除名した事から僧俗別離となっています。

*「三宝」とは  (仏)(法)(僧)の3つをいう。僧とは、仏の法を広める行者として実践行動している僧侶をいう。

2.出版された書籍の内容が、池田先生のお気持ちをねじ曲げ、巧妙に編集・修正されていますので当ブログでは忠実に掲載しています。
・間抜きされた文を赤字
・編集されて出版された部分を[]で囲んだグレーの文字で
・本来の先生の言葉はピンク文字で
載せていますので、その様に認識してお読み下さい。

このように、池田先生のご指導に反し出版された書籍では、あらゆる処に悪しき加筆・修正・間抜きがされています。

かつてアメリカSGIのウィリアムス理事長が、池田先生の書物を大々的に展示する「池田大作展」をしたいと、先生に申し出た事が有りました。

しかし、池田先生は「私の書いた書物で、世界に通用する物は何一つ無い」と断わったそうです。

この事から考えると、池田先生が第三代会長で創価学会の指揮を執っていた時代から、この様な悪しき虫食い改竄がされていた事をご存知の発言だった事と思われます。

では何故、当初から創価学会の中でこの様な横暴が許されたのでしょうか?私には不思議でなりません。

今後、池田先生のご指導を真剣に学びたい時は、「音声データ」が最も正確なものとなります。

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《*ここからレコード盤 B面》

◆70年代・21世紀の展望
ここで、私は一九七〇年代は、いかなる時代であるべきか、また、やがてきたるべき二十一世紀は、いかなるものであるかを展望し、そのうえから、私どもの進むべき方向を考えてみたい。
はじめに、一九七〇年代とは、どのような時代であるか。激流のごとく進む現代にあっては、これ[か]らの十年間の変化は、想像を絶するものとなることでありましょう。
しかし、基本的には、私は、現代文明がはらむ問題点は、一往、そのほとんどが六〇年代で出尽くしたとみたい。そして七〇年代は、これをいかに解決すべきかという、具体的な[第]一歩を踏み出す時代になると想像するのであります。
現代文明の特質は、なんといっても、科学技術の驚異的な発展であります。あの万国博覧会にあらわされているような、生活環境の変化は、決して遠い夢ではない。この趨勢(すうせい)は、もはやとどまるところを知らず、政治的・経済的諸要素と複雑にからみあいながら[も]、着実に浸透し、拡大していくことは、間違いないことでありましょう。
しかし、科学文明の進展とともに、ますます、そこに重大な、矛盾があらわれてまいります。すなわち、すでに、幾多の人々によって、指摘されている、人間精神の空洞化・脆弱(ぜいじゃく)化の問題であります。
機械そのものと、機械の原理による社会の組織化とは、ともに並行して、人間自身を部品化し、主体性を奪うことになってしまうという、深刻な事態であります。

◆危機にさらされる人間性の尊厳
人々の生命力は次第に弱まり[くなり]、英知もまた輝きうすれて、受動的・感覚的になり、その行動も衝動的にならざるをえない。古い権威は崩壊し、心の拠りどころとなる規範を失った結果、底知れぬ孤独感に悩まされ、ただ刹那的な享楽にふけることだけが、はかない救いとなっていく。かくして人間性の勝利のあかしと考え[られ]てきた科学技術文明が、実は、その内部に人間性の恐るべき敗北を招こうとしていること[というの]であります。この考え方は、確かに私も正しいと思う。一言にして現代文明は、科学技術の勝利ではあっても、決して人間性の勝利ではないと思えてならない。私は現代および未来を展望するとき、人類が直面する幾多の難問は、結局、人間を人間として扱うことを忘れた、文明の基本的性格から発生したものである、と断言しておきたいのであります。
人類の未来は、決して明るいとはいえない。それは、科学技術文明の圧倒的優位のもとに、人間性と人間生命の尊厳が、次第に見失われていることであり[により]ます。戦争の危機も、もちろん無視することはできませんが、その全体のなかの一部分にすぎないと[も]いえるのでありましょう[す]
アメリカの社会学者のエーリッヒ・フロムは、二十一世紀の未来を展望して次のようにいっております。
「紀元二〇〇〇年という年は、人間が自由と幸福を求めて努力した時代がめでたく終りを告げ幸福の頂点に達する年ではなく、人間が人間であることをやめ、思考も感情も持たない機械に変ってしまう時代の始まりであるかもしれない」というのであります
この「人間が人間であることをやめ、思考も感情も持たない機械に変ってしまう」とは、少し酷すぎる表現のように思われるかもしれない。しかし、すでに現在でもその兆候があらわれていることに気づくならば、決してそれ[これ]を否定することはできないでありましょう。
たとえていえば、現在、高度に発達した産業社会における人間疎外の問題が、先進諸国で深刻に論議されております。機械の導入によって、人間はたしかに肉体的な労働から解放はされました[されております]。それは一面からいえば喜ばしいことではあります。しかし[が、]裏返していえば、機械が主役であって、人間は重要でなくなったということにほかならない。

◆コンピュータに明確な規制措置を
しかも、これまで人間だけが独占してきた知的労働の面までも、コンピュータの登場によって、どんどん奪われようとしている。そして更に、コンピュータは、やがて権力の機関である行政官庁にも採用されて、国民全部[に]一連番号をふり、コンピュータによって、各人のプライベートな問題まで一切[が]記憶され、だれかがなにかを調べたいときには、たちどころにわかってしまうようなシステムになりかねないともいわれております。
こうして人間は、機械によって、単に職場を奪われるだけでなく、一切を機械に支配される時代がこないともかぎらない。こうした未来社会の事態は、生命の尊厳への恐るべき脅威といわざるをえません。
先日、わが国で行なわれた世界の未来学者の会議で、ある新聞[社]がアンケートをとったそうであります。
そのなかで「将来、コンピュータを憎む人が増えると思うか」という質問に対し、約半分の人が「増えると思う」と答えたということであります。私も、同じ質問を今年のある新聞の新年号で受けたときに「増えると思う」と答えておきました。
おそらくコンピュータの使用については、将来、いろいろなところで問題になるでありましょう。確かに人間の労働を肩代わりするという意味では、コンピュータの使用はまことに望ましいこと[もの]であります。だがそれには、私は人々のプライバシー、人権[を]侵害する恐れのないよう、断じて明確な規制措置が講ぜられるべきことを主張しておきたいのであります。
人間性を疎外するものは、いわゆる物理的な機械だけではない。現代社会の特徴である複雑な組織・機構も、別な意味での機械であります。すなわち、極度に合理化された社会は、それ自体、人間を部品とする一つの機械(マシン)でもあります。そのなかで、人間は人間らしさを失い、思考も感情ももたなくなってしまう。
そして、こうした管理社会をおおう情報の洪水は、個人を絶えまない情報の波で洗うことによって、その思考と感情をマヒさせていくことでありましょう。抽象的ないい方のようですが、具体的には、私どもの現在の日常生活が、すでにそうした危機にさらされていること[を]熟知しなければならないでありましょう[なりません]
新聞やラジオ、テレビは、絶えまなく現代人に新しい情報を提供してくれております。飛行機乗っ取り事件[は]、アポロ13号の事故が報道されると、たちまち忘れ[られ]てしまう。そのアポロのニュースも、次に中国の人工衛星のニュースが出ると、もう人の口にものぼらない。カンボジアへの米軍の進撃が[あ]れば、その[中国の]人工衛星は遠ざかっていく[しまう]。こうして現代人は一つのことを深く考えるいとまもなく、絶えず新しいニュースを追って、ただ受け取るだけの受け身の存在になってしまっている。

◆深まる人間精神の空洞化
このような社会の仕組みと文化のあり方がもたらすものはいったい何か。それが人間性喪失の問題であります。ここに人間精神の空洞化が深まり、物事に対して、ただ感覚的に、そして衝動的に反応するという傾向が強まってくるのであります。
すなわちこの傾向が更に進めば、人間の精神構造は、ただ自己の本能的欲望だけを原動力とし、罪の意識も恥じらい[の]感情もない、単なる“知性ある動物”にすぎなくなってしまうことでありましょう。これについても、近年、世間[ジャーナリズム]をにぎわせている、種々の犯罪の激増、しかもその犯罪者が少しも罪の意識をもちあわせていないという事実、また性道徳の退廃等の諸現象のなかに、あまりにも、その実態が明らかであります。
今日、すでに憂慮されている、これらの現象は、七〇年代そして二十一世紀へと、文明の根本的な姿勢に変化が起こらないかぎり、ますます拡大し、深刻な様相を呈していく[くる]ことは必定であります。それはまさに“世紀末”の姿であり、人類の内面からの破滅といわなければならないと思うのであります。
最近、欧米でも広範かつ深刻な関心を呼んでいる公害の問題も、高度産業社会のもたらしている人間生命への脅威のあらわれの一つといえましょう。特にアメリカでは、公害追放の日として提唱された“アース・デー”(地球の日)に全米で一千万人のデモが繰り広げられたと伝えられております[ました]
人間疎外、人間の部品化を精神的な側面とするならば[すれば]、このような公害問題、更に広げていえば、年々死傷者の激増をみている交通問題等は、肉体的な側面での人間性に対する圧迫であります。現代文明の高度産業社会は、物心両面から人間生命に対して脅威を与えていることを知らなくてはならない。
また、アメリカの経済学者・ボールディングは、現代において真に恐れるべきものは、単に人類を破滅におとしいれる核兵器等ばかりではない。社会心理学的手段によって、人間の精神の内面から切り崩してくるものこそ、更に恐れるべきものである、と次のように述べております。「物理学者は人間の肉体を殺したり不具にしたりすることができるだけなのに、社会心理学者は人間の魂を殺したり不具にしたりすることができる」と。
彼のいう物理学者とは、原水爆等を製造した人々のことであります。社会心理学者とは、社会の管理機構[や]情報[による]操作の理論を生み出す人々[のこと]でありましょう。核兵器は肉体を滅ぼすだけであるのに対して、社会機構[や]情報等は人間の魂を破壊するが故に更に恐れるべきであるというのが、ボールディングの主張であります。
確かに、この指摘は適切であり、未来に臨む人類に対する深い教訓を含んでいると私は思う。しかし、もう一歩掘り下げてみるならば、私は核兵器の脅威といっても、所詮は、それを操作する人間の精神自体の破滅から起こる[の]が真相であると思うのであります。私どもは、この見えざる暴力こそ、未来を破壊していく最大の暴力であると喝破し、人間革命の大運動をこれからも展開してまいりたいと思うのであります[まいろうではありませんか]。(拍手)

◆国家の論理から人間の論理へ
では、次に、この社会的・心理的な力を自在に駆使し、しかも必要とあれば、物理的暴力を使用することを許されている唯一の存在は何か。それが現代における、国家権力であります。
国家権力が、物理的暴力の行使を合法的に許された実在であることは、戦争の遂行や、警察力の行使をみれば一目瞭然でありましょう。社会的・心理的暴力の側面は、表面から、容易に見ることができませんが、その恐るべき力が働いていることは、否定できない実情であるといえましょう。国家権力は、現代の社会では、価値体系の多元化にともなって、直接、民衆を支配することは、少なくなっております。しかし[だが]、目に見えないところでの操作によって、実際には、かつてよりより以上に強力に統制されているとも考えられる。
私は、現在、叫ばれている“世代の断絶”スチューデント・パワーに代表される若者達の反抗の底流にあるものは、なかんずくこの横暴な国家権力への抵抗であると見るのであります。すなわち、その本質は、人々の願う“生命の尊厳”を、今日まで無残にも踏みにじってきた国家主義に対して、新しい世代の起こした反逆ではなかったではありましょうか。
生命の尊厳とは、生命こそ、他のなにものにもかえられぬ、至上の当体であるということである。生命の尊厳に立つ以上、人々を死地に追いやり、あるいは、暴力的に、その自由を奪うような、国家主義の特権は断じて許されない。――この自明の理に気づいた、鋭い青年達の主張が、あのような激動を巻き起こした、と一面では考えられると思うのであります。
民衆は、国家に隷属してきた状態から脱し、生命の尊厳を至上とする新しい舞台へとおどりださんとしております。“国家の論理”から“人間の論理”へ。――これが現代を深く貫く時代の潮流であり、この潮流の先端を切って、限りなき希望に満ちた、生命の大海を開くのが、私どもの使命であると確信して前進しようではありませんか[いたしますが、いかがでしょうか ](拍手)

◆青年の心に拡がる“不信感”
一昨年、一九六八年をピークとして、世界各地で大学紛争が巻き起こり、古き価値観の崩壊と世代の断絶が叫ばれました。学生運動は、当時の華やかさから[す]れば、見るかげもなくなりました。だが決して[が、]問題が解決したわけでは、もとよりありません。当時投げかけられた疑問に対して、社会はなに一つ答えていないのであります。
かえって若い世代は、心の内にますます深い不信感をいだきながら、形の上だけで、一応、体制に順応しているにすぎないとみてよい。
先日の新聞に内閣広報室が行なった、現代青年の意識調査の結果が出ておりました。それによると、たとえば将来の目標という質問には「まじめに自分なりの努力をする」「明るい家庭を作る」が五一㌫を占め「世のため人のため」とか「指導者になる」と答えたのは、わずか一㌫にすぎなかったそうであります。
また、勤労についての質問[で]は「人並みに働けば充分」というのが五九㌫で「他人より余計に働きたい」は三三㌫。更に、仕事と余暇のどちらに重点をおくかという質問には「仕事重点」が三七㌫だったのに対し「余暇重点」が四五㌫を占めた。また仕事と家庭とでは「仕事中心」が三五㌫に対し「家庭中心」が四三㌫であったという結果であります。
この調査からいえる[こと]は、青年達の大半が、社会のなかに積極的に尽くそうという意欲をもっていない。人並みにほどほどに働いて、むしろ人生の楽しみは、余暇や家庭に求めたいということであります。その根底にあるものは、社会への不信であります。そうした社会への不信が極端なかたちをとって、暴力的・反抗的になったのがゲバルトであり、逃避的・厭世(えんせい)的になったのがヒッピーではないかと思うのであります。
そのような、社会全般の傾向に対して、青年がその本来の青年らしい意欲に燃え、健全な青春を謳歌している世界が、わが創価学会であると私は申し上げたいのであります。(拍手)
一般に、宗教に対し、現代の青年は、魅力をもっていない。にもかかわらず、なぜ多くの青年が、学会で生き生きと活躍しているのか。これは妙法という信ずるにたる不動の哲学と、学会の、人間性のふれあいが、疎外され、孤独に陥っている現代青年の胸に、深い共感を呼んだからでありましょう。
そして、やがて、必ず、そのなかから、妙法の哲理を基盤とした、新しい文化建設の機運が、萌えいで必ず新しい文化の建設の指導者が出ることを私は信じておる[ていくことも、必定であると信ずるのであります]。今の十代の人達が二十代になり、二十代の人達が三十代になる十年後に思いをはせるとき、創価学会の社会に果たす役割りは、ますます大きいものがあると、私は、内外の識者の方々に強く訴えてやまない[ぬ]ものであります。(拍手)

◆真実の人間主義の源泉
これまでの諸宗教は、一面では、文化の興隆をもたらしながら、もう一面では、それを阻害する要素もあったことも否定できない。その原因は、私は、それらの宗教のもつ戒律性、道徳的抑制作用にあったと考えたい。
これからの宗教は、人間性をしばる宗教であってはならない。人間性を生かす宗教こそ、新しい文化の土壌となるべき宗教であると思うのであります。真実の人間主義の源泉は、ここにあるといっておきたい。
ボールディングもまた「われわれの時代の危機は根本においては宗教的な危機である」と叫び、宗教が再び「人生や経験や知識のうねりのなかの統合的[な]要素」とならなければならないことを強調しております。否、それは、ボールディングだけではありません。さきに引用したフロムもしかり、アインシュタインやトインビーもしかりであります。
これら、二十世紀最高の知的水準に立つ人々が立ち場の違いこそあれ、等しく提唱している宗教の重要性が、現実には、時代の思潮として広く民衆に訴えかけ、文明の転換をもたらすまでにいたらなかった、その原因はどこにあるか。それは、現代という時代にあって、人々の心をとらえ、社会的・文化的に、積極的・建設的な役割を遂行できる、優れて力ある宗教の存在を知らなかったという、この一点にある、と私は思うのであります。私どもは、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、まさに、この時代の要求と、文明の課題に応える唯一の力ある大宗教であることを知っております。故に今、二十一世紀に向かって、人類の前途に立ちふさがる暗黒の未来を思うとき、そこに光明を与え、輝かしい道を切り開いていく唯一の実体は、私どもの妙法流布の戦い以外に断じてないことを[と]確信し、更に新らしい[たな]決意をもって[で]進んでまいろうではありませんか。(拍手)

◆壮大な宗教運動の夜明け
人間を人間たらしめる究極の条件は何か。ある人は「知恵」であるといい、ある人は「働くこと」だといい、ある人は「遊ぶこと」であるといってきました。しかし、高等動物のあるものは、かなり高い知能をもっているし、また、あるものは遊びも知っております。
これらは、人間を特徴づける要素の一つではあっても全体ではない。また、実際、これらの基準では決して明確な区分線は引けないのであります。私は宗教をもつことこそ、他のいかなる動物にもない唯一の特色であり、かつ人間が全き人間となるための本源的な道であると思うのであります。
二十一世紀は、おそらく科学技術の世紀となることは、まず間違いないでありましょう。しかし、人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく人間の世紀とするためには、信ずるにたる優れた宗教を根底とすべきことを私は訴えておきたいのであります。
科学の世紀は、即宗教の世紀でなくてはならない。そうでなければ、人間全体、生命全体の正常な姿はありえない。ここに新しい未曾有の大宗教運動の必要を痛感するのであります。私は、正本堂の完成による、仏法史上の新時代の開幕を目前にし[た]今日、そして、二十一世紀まであと三十年のこの一九七〇年という年を、[この]壮大な宗教運動の新しい夜明けの日としていきたいと思いますけれども宜しい[が、いかが]でしょうか。(拍手)
これまではその序分であり、準備であった。本当の偉大な仏法の開花はこれからであります、私どもの手であらゆる善意と誠実の人々とともに、新しい人間の文化、人間の世紀の黎明を告げてまいりたいと思うのであります[ようではありませんか]
もはや、全体主義の道でもない。無秩序の退廃の道も選ぶべきではない。宗教を土壌とした人間の自覚、英知の湧現しか現代文明をリードするものは絶対にないと申し残したい。もし、仏法に生きぬく創価学会の存在なくば、全体主義が再び台頭するか、無秩序な退廃に身をまか[せる]しかない。日本の将来、人類の未来は、いよいよ断絶を深めるばかりでありましょう。決して独善でもなければ、慢心でもない。新しい世紀を築く責任を痛感すれば、私はそう叫ばざるをえないのであります。(拍手)

◆教育、文化で人類に貢献
その観点から、今後の創価学会のビジョンとして、人間生命の躍動を根底とする新しい文化の創造と、次代の人間形成をもたらす教育事業とを宣揚していきたいと思うのであります。
民音の音楽活動、芸術部の行なっている美術部門等々、第三文明建設の前途は多岐にわたっております。それらはもちろん、私どもが母体として支え、応援はしていきますが、できあがり、独立して社会に定着すれば、一切、専門の部門[団体]に任せていくという方程式でまいりたいと思うのであります。
かくして、創価学会は、人間生命の開拓による英知の文化、創造の文化、すなわち、創価文化ともいうべき、新しい文化の母体として、社会に貢献してまいりたいと思うのであります[まいろうではありませんか]
学術部門においては、四十六年に創価大学が開[学]の運びとなりました[ます]。現代文明への反省から、すでに学問の世界においても、これ[から]の時代には、人間性への根底的な問いかけから出発した、全く新しい学問体系の樹立が必要であるといわれるようになっております。
これは、昨年の総会で申し上げた、創価大学の三つのモットー、すなわち、第一に人間教育の最高学府たれ、第二に新しき大文化建設の揺籃(ようらん)たれ、第三に人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ、に要約されると思うのであります。
考えてみれば、膨大なテーマでありますが、この新しい学問のあり方にどう応えていくかが、創価大学の究極の使命であり、責任となろうと思うので[申し上げたいの]であります。
ご承知のごとく、来年開講になるのは経済学部、法学部、文学部の文科系のみで、理工系の開講は段階的に実現していくことになっております[なるでありましょう]
おそらく全学部がそろい、総合大学としての姿を整えるには、少なくとも、最低十年ぐらいかかると考えてよい。図書館や種々の研究設備も、大学となれば、立派なものにしなくてはなりません。やがてシルク・ロードの調査なども行なうであ[ようにな]りましょう。
ところでこうした教育、文化の推進は、決して、創価学会の宣伝のためであってはなりません。あくまでも、社会のため、人類文明のために貢献していくことが、元意であることを、私どもの基本姿勢として確認しておきたいのであります。
したがって、この教育、文化の活動は、いかなる外部の世界とも、その理想を一つにするところに対してはすすんで協力し、協調していくべきであります。たとえば、その一例として、現在、文部省、外務省で「国連大学」の構想がつくられておりますが、新しい学問の発展のために、また、日本が教育で世界に貢献するということからも、私も大賛成であります。そうした事業については、心から賛同もし、協力もしていきたいと思うものであります。

◆いよいよ高まる広布の時運
最後に、私どもの真実の叫びが、やがて世界に響き渡ることを信じつつ、光輝につつまれた生涯の思い出の日々をともどもに進んでいきたい、と念願するものであります。
選時抄にいわく「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(御書全集二五六㌻)
上野殿御返事にいわく「一切の事は時による事に候か、春は花・秋は月と申す事も時なり」(御書全集一五六一㌻)
妙密上人御消息にいわく「上一人より下万民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱え給ふ事もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず・春を留(とどめ)んと思へども夏となる」(御書全集一二四一㌻)と云云[云云と]
時ほど偉大なものはない。時にかなうほど力強いもの[こと]ははない。時は宇宙生命の大リズムであるようにも思える。正本堂建立、への広宣流布への時運は、いよいよ高まり、未曾有の壮大な生命と、宇宙の儀式が展開されることは必定であります。
ここに日達上人猊下のご清穆(せいぼく)と宗門の限りなき繁栄を祈願しつつ、また、皆さま方のご健勝と、前途が、ますます栄光の道に輝くことをお祈り申し上げ、私の講演を終わらせていただきます。(大拍手)


*聖教新聞社発刊の小冊子より転載(修正)


2019年08月15日