池田先生のスピーチ(音声) 第38回本部総会 第38回本部総会 昭和50年11月9日 広島市・県立体育館 1.健康・青春について 木々の紅葉が映(は)え、草木の実がことごとく成熟する晩秋のさわやかなこの佳(よ)き日、第三十八回本部総会を、ますますご健勝な日達上人猊下のご臨席を仰ぎ、全国の代表幹部の皆さま方とともに、意気軒昂(けんこう)に開催できましたことを、心から喜びあいたいと思うものであります。ありがとうございます。(大拍手) また、ご来賓の皆さまには、ご多忙のなか、遠路ご参集いただき、厚く厚く御礼申し上げます。ありがとうごさいました。(大拍手) 加えて、本日の晴れやかな総会の陰にあって日夜、準備・運営にあたってこられた、広島の愛する同志の皆さんのご尽力に、重ねて心より感謝と敬意を表するものであります。本日はありがとうございました。(大拍手) 今回の本部総会が、原爆投下の地、広島県下で開かれましたことは、戦後三十年という一つの節を迎えて、二度と再びあの人類の惨劇を繰り返してはならないという、私どもの重大なる決意をもって行われていることを、まず私ははっきり申し上げておきたいのであります。本日は、この決意のもとに今後の展望をふまえつつ、およそ一時間少々静かに話をさせていただきたいと思っております。 明年は「健康・青春の年」と銘打って進んでいくことが、すでに総務会等々で決議されております。まことに健康と青春こそは、いかなるものにも代えがたい、人類共通の「生命の価値」といえましょう。最近、健康法や健康食品に強い関心が寄せられておりますが、これも現代人の健康に関する不安と願望のあらわれと考えられる。 はつらつとした健康体でありたい、生涯にわたって、みずみずしい青春の息吹(いぶき)を持続させていきたい――いかなる人の心の底にも、この二つの願いが込められているからであります。とともに、明年を「健康・青春の年」と定めたのは、あまりにも病(や)んだ社会にあって、私どもは希望に燃えて進んでいきたいからであります。また学会員一人ひとりの健康・青春の息吹こそ、社会を変革する力と信ずるからであります。 ◆病の原因 仏教は、とくに衆生の病(やまい)ということを重視し、心身にわたる病の治癒(ちゆ)を仏教の特質として、一貫して強調しております。そこで「太田入道殿御返事」にもあげられている、天台摩訶止観(まかしかん)の「病の六種の原因」について考えてみたい。 「病の起る因縁を明かすに六有り、一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節(おんじきせつ)ならざる故に病む・三には座禅調(ととの)わざる故に病む・四には鬼便(きたよ)りを得る・五には魔の所為(しょい)・六には業(ごう)の起るが故に病む」(御書全集一〇〇九㌻)とあります。 まず「四大不順」ということでありますが、東洋思想では、大自然それ自体もまた、人間の身体を含めた宇宙万物も、地・水・火・風の四大によって構成されていると考えております。したがって、気候の不順など大自然の調和が乱れると、それが人間の身体に重大な影響をもたらし、各種の病気が発生するのであります。 第二の「飲食不節」(おんじきふせつ)と第三の「座禅不調」(ざぜんふちょう)は、飲食と生活の不節制ということであります。生活のリズムが乱れ、その結果、食生活が不節制となり、また運動不足や睡眠の不足に陥(おちい)ると、内臓や神経・筋肉系の病気につながってまいります。 第四の「鬼便りを得る」の「鬼」とは、身体の外側から襲いかかる病因をとらえたものといえます。鬼には、細菌・ウィルスなどの病原性微生物もあれば、さまざまな精神的ストレスも含まれていると考えられます。 第五の「魔の所為」と第六の「業の起るが故に病む」とは、人間の生命の内部から起こる病気の原因であります。 「魔の所為」とは、生命に内在する各種の衝動や欲求などが、心身の正常な働きを混乱させるものであると考えられる。 最後の「業の起るが故に病む」とは、生命自体持つゆがみ、傾向性が病気の原因になっている場合もあります。仏法では、生命のゆがみの原因を「業」ととらえております。 このように、病気の原因を六種にとらえておりますが、具体的な病気においては、これらのいくつかの原因が重なり合っているとも考えられるのであります。 たとえば、風邪をとってみても、ウイルスがその原因ではありますが、これは「鬼便りを得る」にあたると考えられる。しかし、この鬼が便りを得るには、気候の不順、つまり四大不順が引き金になったとか、飲食節ならざる生活が体力を弱めていたとかの機縁があったわけであります。更に、そうした風邪にかかったことのその奥に、仏道修行を妨(さまた)げようとする魔の働きがあったという場合もありましょうし、人によっては、風邪にかかりやすい体質に生まれたという「業」を考慮しなければならない場合もある。 こうした視点から、いわゆる健康法を探索してみますと、まず気候の不順に対処するには、大自然の変化に順応する生活態度が必要になってくる。衣服や住居などについて、自然のリズムに適応することであります。 とともに「飲食節ならざる故に病む」ということについては、暴飲暴食をさけ、適度な運動を欠かさず、睡眠不足に陥らないような生活を持続することが肝要であります。規則正しい生活が、心身の抵抗力を強めるからであります。 生活のリズムを整えながら、生命の適応力・抵抗力を強化するとき、医学も十分な効力を発揮できるでありましょう。 一般的に「鬼」の働きを解明し、それに対処するのは医学の分野であります。しかし、生命の深いところに起源をもつ「魔」の場合には、医学の力だけでは不十分であります。更に「業」が発動している場合ともなれば、仏法による以外にはなくなってくる。 したがって、同じ病気であっても、単に飲食不節ということがその根本の原因である場合には、当人の節制によって治すことができる。「鬼」が原因である場合は、医学の力によって治せます。しかし、そのもっとも深い原因が「魔」あるいは「業」による場合は、どのように医学の力を尽くしても治すことはできない。このときは、医学によってできる範囲の治癒で、重なり合っている他の原因を除去しつつも、仏法の強い信心の力によって「魔」を打ち破り、「業」を転換する以外に、ないのであります。 ◆健康・青春の本質 いうまでもなく、健康とは、ただ単に病気ではない、という状態をさすものではありません。また、身体が強健であることのみで健康であるとはいえない。心の健康ということを、おろそかにすることはできません。心身ともに健全に、生きいきとした創造の営みを織りなしていくところにこそ、真の健康がある。どのような苦難をも乗り越え、最悪の環境条件さえも転じて、飛躍の原動力に変えていくところに、真実の健康像があると申し上げたいので有りますけれども、皆さんどうでしょうか。(大拍手) したがって、一言にして健康の本質をいえば、それは、絶えざる生命の革新にほかならないと考えたい。この生命の革新を可能にする根源の当体を、人間の内部に洞察(どうさつ)して、「仏界」すなわち仏の生命と名づけ、現実に生命革新の道を開いた仏法こそ、人類の健康法をもっとも根源的に明かしたものであると私は信じますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手) 一方、青春の本質をなすものもまた生命の躍動であります。青春の特質は、たとえ未完成であっても、そこに偉大なる生命の燃焼があることであります。未知の世界への挑戦・はつらつとした革新のエネルギー・正義感・情熱等、青春をつらぬくものは、かぎりなく色彩感豊かであります。 ところが、年をとり月をふるごとに、社会の汚濁に埋没し、その内から発する、あふれんばかりの色彩感はあせ、老化していってしまう。 五濁悪世のなかにあって、青春の使命を生きぬくには、究極的には正義と勇気と慈悲の源泉である「仏界」に根ざした、生き方を全うする以外に最早なくなってきたと私は思う。青年期の信念を死のまぎわまで燃やしつづけるところに、真実の健康・青春が輝くといえるからであります。 東洋の心に流れてきた仏法の歴史においても、変革者は常に生涯青春の姿を示してまいりました。インド応誕の釈尊も、涅槃(ねはん)の直前まで、求める衆生に仏法を説きつづけたと仏典に記されております。 日蓮大聖人は、亡くなられる直前、つまり弘安五年(一二八二年)にも、なお御書をしたため、弟子の指導に全力をかたむけられました。また、周知のように創価学会の歴史においても、牧口初代会長は獄中でなお仏法を説き、戸田前会長は逝去の寸前まで妙法流布の構想を練り、指揮をとりつづけました。私たちは、こうした仏法を体現した先覚者の生き方に、宇宙生命と交流しつつ、輝ける青春を生涯つらぬいた、真に偉大な人間の理想像を思い描くことができるのであります。私どももまた、いつまでも若々しい健康美にあふれ、青春の息吹に満ち、生涯青年・生涯青春の生き方を全うしてまいりたいと存じますけれども、皆さん、よろしくお願いします。(大拍手) ◆大宇宙と人間生命の関連性 「三世諸仏総勘文教相廃立」(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう)に、妙楽大師の弘決(ぐけつ)を引いて、次のように述べられております。 「弘決の六に云く『此の身の中に具(つぶ)さに天地に倣(なら)うことを知る。頭(こうべ)の円(まど)かなるは天に象(かたど)り、足の方(ほう)なるは地に象ると知り・身の内の空種(うつろ)なるは即ち是れ虚空(こくう)なり腹の温(あたた)かなるは春夏に法(のっ)とり背の剛(かた)きは秋冬に法とり・四体(したい)は四時(しじ)に法とり大節(だいせつ)の十二は十二月に法とり小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入(しゅつにゅう)は山沢渓谷(さんたくけいこく)の中の風に法とり口の息の出入は虚空の中の風に法とり、眼(め)は日月(にちげつ)に法とり、開閉(かいへい)は昼夜に法とり、髪は星辰(せいしん)に法とり、眉(まゆ)は北斗(ほくと)に法とり、脈(みゃく)は江河(こうが)に法とり、骨は玉石(ぎょくせき)に法とり、皮肉(ひにく)は地土に法とり、毛は叢林(そうりん)に法とり』」(御書全集五六七㌻)とあります。 弘決の文を少しく引用しましたのは、東洋思想の生命観をわかりやすく説き示すためであります。東洋においては、仏法でも、また古代中国の陰陽五行説(おんようごぎょうせつ)でも、人間と大自然・大宇宙を相互に密接な関連あるものとして、とらえております。 いかなる人間も、大自然と不可分に結びつき、宇宙の律動のなかに個々の生を営んでいる。いな、万物すべてが、大宇宙の絶妙なリズムに支えられて、生と死の流転を織りなしているのであります。しかも、宇宙森羅万象を生み出し、はぐくむ母なる自然そのものを宇宙生命と名づければ、そのなかで生死を営む人間生命に、宇宙の調和はそのまま集約され、凝縮しているといっても、決して過言ではない。この大宇宙と人間生命を直視し、相互の関連性を説き示そうとしたのが、この弘決の文であります。 むろん、この文章の背景にある陰陽五行説という中国思想については、現代科学の知識からすれば不十分な点もあり、また、いまだ未知の部分が多いことも事実であります。しかし、西洋近代の学問が、ともすれば分析的な方法に走るあまり、総合的見地を見失いがちであるのに対して、大宇宙との関連のうえから人間生命を総合的に解明しようとする東洋の思考法には、いまなお注目すべき洞察が含まれていると考えたい。妙楽大師も、仏法思想のうえから、中国の思想を活用し、人間生命を大宇宙のリズムのなかに位置づけたのでありましょう。 弘決の文章のなかから、数例を取り出してみますと、たとえば、私たちの呼吸作用を、自然界の風に対比している。人間身体における息の出入は、大宇宙の活動のなかでは、空気の動きに相当するというのであります。 山沢渓谷を流れる静寂な風は、自然の息吹であるという。小宇宙としての人間にも、規則正しい呼吸の働きが息づいている。もし、大空の風が暴風と化せば、あらゆる生物の営みも混迷の極に達してしまうはずであります。これは、人間の場合にたとえると、ぜんそく発作ともいえるのであります。 また、自然界の江河の流れは、人間では血液の流れに相当すると記されております。江河を通っての水流の巧みな循環が、大地と生き物を育てると同様に、血液循環のリズムが人体の細胞・組織の新陳代謝を支えている。江河の氾濫(はんらん)すなわち洪水(こうずい)は、丁度、人間生命における脳出血にも等しい障害をもたらすものであります。 その他、大地は私たちの皮膚や筋肉に相当する。大地に育つ叢林(そうりん)は、人間の身体の毛髪に等しい働きをなしているとも示されております。 自然界は、江河や風や大地の多様な働きを織り込みつつ、四季を彩(いろど)り、永劫(えいごう)の変転を重ねていく。自然もまた一個の巨大な生命的存在である、と言わざるをえないようであります。 このように、調和あるリズムを奏(かな)でつつ、変転を重ねる自然を動かす根源のリズムを南無妙法蓮華経であると、とらえたのは、日蓮大聖人の仏法であります。この根源の一法は、同時に人間生命を支え、動かす存在でもあります。 つまり、大宇宙と人間生命をともに貫き、支え、生み出す根源の一法こそ、南無妙法蓮華経であり、仏法では、この一法を、仏の生命と称するのであります。 したがって、この仏界の生命が弱くなり、全体のリズムに狂いを生じた場合は、大自然も人間も、ともに生ける生命体としての力を消失し、崩壊へと向かわざるをえないのであります。 大宇宙の混乱、崩壊(ほうかい)は、そのまま人間生命の崩壊につながっていくのであり、逆にいえば、人間生命のなかに強い仏界の力が湧現してくれば、心身は躍動し、ひいては大自然の生の色彩を鮮やかに光輝せしむるに至るのであります。 このように東洋思想の伝統的な考え方は、大宇宙のリズムに合わせた生き方を教えたものであります。大聖人の仏法は単なる消極的な生き方に終始するのではなく、そこから更に、この人間生命の躍動が大宇宙へと波及し、変革するエネルギーとなることを指し示したところに偉大さがあります。まさに仏法が、社会・国土に生きいきと光彩を放つことであり、宗教の本質的意義はそこにある。 私どもの仏法実践は、大聖人の本義の実践であります。更に健康と青春の人生を送ることの保証もまちがいありません。要は確たる実践であります。 一人の生命の心身両面にわたる健康と青春の息吹は、単なる一個の人間革命にとどまらず、大きくは病める社会、国土の蘇生にもつながっていくことを確信し、どうか皆さん方は、ますます健康に留意され「年は・わかうなり、福はかさなり候べし」(御書全集一一三五㌻)の御文のごとく、いついつまでもお元気で、この時代を衆生所遊楽して生きぬいて頂きたいと思っております。よろしくお願い致します。(大拍手) そして、社会の希望の太陽となっていただきたい。それが私の最大の願いであります。 2.創価学会の基本精神 さて本年は、昭和五年十一月十八日に創価教育学会として学会が誕生してから、満四十五年を迎えたわけであります。また戸田前会長によって、戦後の再建の第一歩が踏み出されてより、丁度、三十年目でもあります。私が第三代会長に就任して、満十五年でもあります。 あらゆる点で、今年は、一つの大きな節を刻む年であったといえる。もとより、そうした私どもを取り巻く状況の新展開ということについては、これまでも幾度(いくたび)となく申し上げてまいりましたし、広宣流布の第二章という展望も、すでに思考し、具体的に実践に踏み出しているところであります。 だが、それゆえにこそ、あえてここで私は皆さんに訴えておきたい。 それは創価学会の原点、基本精神の再確認ということであります。以前にも申し上げたように、広宣流布の新段階というものは、線から面への展開になります。それは、今後ますます多角化し、重層化して、面から更に立体へと広がっていくことでありましょう。 しかし、そこで、創価学会の根本目標として、どこまでも忘れてはならないことは、日蓮大聖人の三大秘法の仏法を広宣流布することであります。諸法実相抄の「剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的(まと)とするなるべし」(御書全集一三六〇経㌻)との大聖人の仰せ、また「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通(ずいりきぐつう)を致す可き事」(御書全集一六一八㌻)の第二祖日興上人のご遺誡(ゆいかい)を、私どもは永遠に変わらぬ学会精神の原点として進んでいくということであります。 この広宣流布実現への個人個人の活動は、いうまでもなく着実な折伏弘教の推進であります。そこにこそ、末法仏道修行の真髄があり、御本仏大聖人の弟子、地涌の菩薩としての本領がある。この根本精神は今後、いかなる時代になってもまた、一人ひとりの活動の場がどのように多岐にわたろうと、絶対に保ち続けるべきであると申し上げておきたいのであります。 この広宣流布・仏法拡大の運動それ自体、現実社会において、もっとも本源的な人間復興・生命尊厳確立の戦いであることはいうまでもありません。 そこから更に一歩、仏法をたもった社会人の集団としての、社会における責任、また目標はどこにあるかといえば、生命の尊厳を基調とした文化の興隆にあるといえるのであります。 また、学会員個々人としての社会貢献のあり方を申し上げれば、人間共和の地域社会現出、また人間性あふれる職場社会の創出にあります。 これまでも、創価学会は、総体としてさまざまな文化的活動を展開してまいりました。また、平和の問題について社会に向かってアピールし、行動もしてまいりました。今後も、創価学会の社会に占める比重が大きくなるにつれ、ますます信頼と理解をいただけるような仏法者としての活動を持続してまいりたいと思うのであります。 この広宣流布という目標と、文化という目標とは、一切衆生の救済という、仏法の精神において結びつくものであり、むしろ本来一つのものの異なったあらわれとさえ言えると思うのであります。なぜならば、広宣流布・折伏弘教は、人間個々の内面から変革の力を与え救済していくものであり、一方、生命の尊厳を基調とした文化の興隆ということは、文化的・社会的環境という外からの救済の道を開くものであるからであります。 とくに、環境的側面からの救済の道、ということに関していえば、立正安国論にも「国を失い家を滅せば、何(いず)れの所にか世を遁(のが)れん。汝須(なんじすべから)く一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を禱(いの)らん者か」(御書全集三一㌻)との仰せがあります。世界恒久平和の実現こそ、我々のめざすべき大道なのであります。 3.核問題への提唱 その意味から、日本および世界の現状、そして創価学会が社会にいかなる役割を果たしていくかについて、少々所感を述べておきたい。 生命の尊厳を守るために取り組まねばならない、現代社会における最大の問題は、いうまでもなく、これは「核」の問題であります。一九四五年七月十六日、アメリカが史上初の原爆実験を行い、そして忘れもしない八月六日、この広島の地に原爆が投下されて以来、今年は三十年目であります。 広島に次いで長崎、そしてビキニ環礁(かんしょう)と「核」のツメ跡は重ねて日本民族に襲いかかった。戦後「三たび許すまじ原爆を」の歌声は、この広島の地より巻き起こり、全国津々浦々にまで響き渡っていきました。その結果、朝鮮戦争において、中東紛争において、更にベトナム戦争においても、何回となく核戦争の瀬戸際(せとぎわ)に立ったが、かろうじて人類が核を使う誘惑をしりぞけることができたのも、まさしく広島の地よりわき起こった平和への熱願によるものといえるのでありましょう。その意味で広島は、世界の核戦争を防止する平和の原点であり、聖地であるといってよい。 また核兵器の恐ろしさを最もよく知っているのは日本人であり、私ども日本人こそ、それを全世界に訴える資格と権利と責任をもっていると申し上げたい。この点いかがでしょうか。(大拍手) いわゆる「核」の問題に関しては、私は昨年の第三十七回本部総会において、核兵器絶滅への姿勢と、いくつかの具体的な提案を申し上げました。また、今年の一月には、わが青年部有志が中心となって集められた、核兵器反対の一千百万人の署名簿を、国連のワルトハイム事務総長に手渡しました。 そこで私は、この歴史的な広島の地における本日の総会において、更に「核」問題全般にわたる所感を、二、三述べさせて頂きたい。 ◆製造・実験・貯蔵・使用の禁止 第一に、いかなる国の核兵器の製造・実験・貯蔵・使用をも禁止すること、そしてこの地上から一切の核兵器を絶滅する日まで、われわれは最大の努力をかたむけることを、ここに改めて宣言し、再確認しておきたい。このことは、すでに昨年の総会でも発表し、私も何回となく機会あるごとに主張してまいりました。というのも、われわれ、生命の尊厳を守る仏法者としての立場からいえば、核兵器こそ、奪命者(だつみょうしゃ)である「魔」の本質をもつものであるからであります。 しかも、いまやこの地上の一切の生命的存在を絶滅して、なお余りあるほどの量の核兵器が保持されているのであります。そして、この恐るべき核兵器は、タテには量的に、またヨコには地域的に、拡散の一途をたどっている。このとめどもない核拡散の状況に歯止めをかけ、実験を禁止させ、更には核兵器の絶滅に向かわせるためには、私は、核抑止理論の無意味を強調するだけでは足りないと思う。より深く本質的な次元から「核兵器は悪魔の産物であり、これを使用する者も悪魔でありサタンの行為である」という戸田前会長の洞察(どうさつ)を、広く全世界に広めていくことが、もっとも根底的な核絶滅への底流を形成することになると考えたい。 そこで私は、昨年の総会において「平和波動の年」と定めた第二のステップの出発にあたり、とくに期待する青年部・学生部の諸君が、この広島の地において核兵器反対の誓いも新たに、より幅広く、より大きな平和へのうねりを高めていくよう希望したいと思いますけれども、よろしくお願いします。(大拍手) ◆民間レベルの研究・討議の推進 第二に、いま申し上げた核兵器反対への潮流をふまえて、では現実的に何をなすべきか。核兵器全廃への具体的なプロセスについて、いくつかのことを考えてみたい。 まず私は、核軍縮に対する民間レベルの研究・討議・提案が必要であると考えます。現在、国連の軍縮委員会では、日本も五年前からメンバーに加わって軍縮討議が行われておりますが、一向に進展の気配はみられない。その理由については種々の要因があげられると思いますが、根本的には、核絶滅を願う国際世論の高まりが、そこに反映されていないからであるといえるのであります。あるいはまた、その主張に説得力が足りないとすれば、それは核の脅威に対する認識と調査が欠如している、ところに原因があると考えざるをえない。 そこで大事なことは、核の実態・その人間生命に与える影響性・恐ろしさを、正しく調査研究することであります。その調査研究機関を、この広島または長崎に早急に設置すべき必要があると私は思いますけれども、いかがでしょうか。(大拍手) また核兵器全廃のための全世界首脳会議を開催すべきであるというのが、私のかねてからの主張であり、念願でもありますが、いきなりこうした首脳会議を行うことは、なかなか実現困難であることも、よく承知しております。そこで、そのワンステップとして、核保有国たると非保有国たるとを問わず、核の恐ろしさを知り、核兵器の全廃をめざす専門家・科学者・思想家など、民間代表者が集うことを提唱したい。そして、その場で核のもつ恐ろしさを徹底的に調査・研究・討議し、核軍縮への具体的なプロセスについて、結論が出るまで会議を続行してはどうかと思う。 その内容としては、核兵器の全廃が当然の課題でありますが、全体のコンセンサスとして、私は次の二つの決議が優先的に採決されるよう希望したいと思うのであります。 その一つは「いかなる核保有国も、自ら先に核を使用しないことを宣言すること」 であります。この点どうでしょうか。(大拍手) 第二に「非核保有国に対しては、現在から未来にわたって絶対に核を投下しないこと」 この点どうでしょうか。(大拍手) 以上、二つで事たれるとするわけではありませんが、現実的に合意しやすい決議であり、しかも、これを行うことが、核兵器全廃のためにもつメリットは少なくない。そうして、こうした警世(けいせい)の人々の叫びが国際世論となり、その土台のうえに、全世界首脳会議が開かれるべきであります。 私が、このように提案するのは、各国の利害、自国の安全のみが優先した首脳会議から、全人類の運命を担(にな)う核絶滅への首脳会議にしなければ、無意味に等しいと信ずるからであります。そして、この第一段階の国際平和会議を、平和の原点の地である「広島」において開催すべきであることを提唱したいと思うのであります。(大拍手) このような提案に対して、あるいは理想的にすぎるという反論があるかもしれない。それは戦後三十年、さまざまな核軍縮への提案や試みがなされてまいりましたが、現実にはただの一発も自発的に核兵器は廃棄されず、むしろ増える一方であったという事情がある。しかし、いままで核兵器の開発に費やされてきた膨大(ぼうだい)な軍事費を人類の平和と繁栄のためにふり向けるならば、すなわち戦争経済の仕組みから、平和産業の経済構造へと変えていくならば、核軍縮から全廃への方向は現実性をおびてくることになる。 なるほど、このような抜本的な発想の転換には、たいへんな勇気ある決断を必要とするでありましょう。しかし、その勇気ある決断によって、二十一世紀への人類の未来が切り開かれるならば、やがて後世の史家は、その試みが人類の命運をも転換したものとして、絶賛の評価を与えることはまちがいないと思いますけれども、どうでしょうか。(大拍手) ◆核の平和利用への厳重監視 第三の問題は、これまでの「核の平和使用」の名のもとに進められてきた、いわゆる原子力発電等の安全性についてであります。 最近、日本でも翻訳された「原爆は誰でも作れる」という本が、アメリカで衝撃的な反響を呼んだそうでありますが、いまや原子力産業の急激な発展によって、そこで作られる核物質を用いるならば、いとも簡単に原爆が作られる時代になった。また、今日では小型の戦術核兵器の管理が大きな問題になり、昨年の総会で警告したように、「核ジャック」という事態が仮にでも起きたとするならば、たちまちにしてパニック状態を現出しないともかぎらない。 日本でも推進されている原子力発電は、その副産物として核分裂生成物を生み出し、その結果、長崎型原爆の原料となったプルトニウムを溜(た)め込むことになります。日本が現在すでに潜在的核保有国であるといわれるのは、そのためであります。それは微量でもきわめて毒性の強いものとされており、このように危険な核物質が多量に生み出されつつある現況というものを、私どもとしても、まず深く認識する必要があると申し上げたい。 もとより私は、原子力問題の専門家ではございません。また二十一世紀へのエネルギー源として原子力産業が主力を占めるべきものかどうか、専門の科学者の間でも議論の分かれるところであります。しかし、この「核」の問題に関しては、それがあらゆる生命的存在を抹殺し、人類の生存にとって重大な脅威となりうるものである以上、その安全性について厳重な監視を怠ってはならないと思うのであります。 4.人類の前途と宗教 イギリスのある学者は、先頃「オブザーバー」誌に「第七の敵」という論文を発表し、大要次のように述べております。 すなわち、人類はいま、六つの大きな脅威に直面している。 第一に人口爆発、第二に食糧不足、第三に資源枯渇(こかつ)、第四に環境破壊、第五に核の誤用、そして第六に野放しにされた技術である。しかもこれらの問題は、それぞれ深く結びついており、あちらを立てればこちらが立たずで、個別的次元からのアプローチ、あるいは、一国家の枠(わく)にとらわれた発想では、解決不可能である点に、事態の深刻さがあるというのであります。 そこで、打開の方途を見いだすためには、ヨコに人類的視野を望み、タテに二十一世紀をも展望する総合的視座に立って、英知を結集していく以外にはない。それができないのは、どこに原因があるのか。彼はその障害の要因には、第一に人類の道徳的迷妄(めいもう)、第二に国内的国際的政治機構の通弊(つうへい)という、二つの側面があることを指摘し、それを総じて「第七の敵」と名づけているのであります。 人類の道徳的迷妄とは、人間の「内」なる脅威だ。政治的機構の通弊ということは「外」なる脅威であるといえますが、ともに人間自身の問題であることはいうまでもありません。これを歴史的にみれば、近代文明の流れというものは、人間から社会へ、そして自然へというふうに、欲望充足のための素材を求めて、たえず外へ外へと向けてきた。しかし、近代物資文明の黄昏(たそがれ)を迎えている現在、人類の「外なる脅威」の由来をたどった結果、ようやくその「内なる脅威」に目を向けざるをえなくなってきているのであります。しかも、その「内なる脅威」の実態把握(はあく)もままならず、不安定と混迷の濃霧のなかにさまよっているというのが、現況であるといってよい。 私はここにこそ、宗教というもののひときわ未来への光芒(こうぼう)を放つであろう、最大の存在理由があると思うのであります。とくに日蓮大聖人の仏法は、この「内なる脅威」の本源を人間生命の根本の迷いにあるとして、それを「元品の無明」と説き、それを断破しゆく方法を万人に明らかにした、優れて人類的宗教であると申し上げたいのでありますけれども、いかがでしょうか。(大拍手) この生命変革の哲理をもった私どもが、とりわけ重視するのは教育であります。よく「教育とは、隠れた能力を引き出すことである」といわれているように、教育の本質は、潜在的なものを引き出すことにあります。つまり、人々の生命に内在している可能性・創造性を、どう顕在化させていくかにある。とくに大切なことは、己れ自身の教育ということであります。自己教育という一点を忘却した教育は、しょせんは権威主義的な押しつけとなり、教育本来の目的は逆のものを、もたらしてしまうでありましょう。 人類最大の教師の一人といわれるソクラテスが、自らを「シビレエイ」(魚のエイの一種)になぞらえて「シビレエイは、自分がシビレているからこそ、他人もシビレさせることができるのだ」と述べているのも、当然なことであります。 したがって、私どもが、まず自分自身の人間革命を第一義としているのも、教育という側面からいって、もっとも教育の本義に立っているのであります。また、私どもの対話そのものが、教育であります。めざめたる生命の一対一の触発作業という波動が、やがては人類の生き方にまで、かかわってくることでありましょう。その意味で創価学会はいわば、生命覚醒の教育社会の縮図ともいえる。 この人間革命から教育革命へと向かう波動が、万波と起こっていくとき、政治革命・経済革命等といった「外なる脅威」の打開策も、人類の英知の展望のなかに確たる位置を与えられると考えるのであります。私どもはここにこそ、人間生命というものを忘れて外へ外へと暴走しつづけた近代文明を、根本的に転換しゆく鍵(かぎ)があることを、共々に主張してまいりたいと思いますけれども、よろしくお願い致します。(大拍手) 創価学会の存在をかけた、この大仏法を基調とした創価文化主義ともいうべき根本軌道のうえに立って、平和・文化の推進の輪を幾重にも幾次元にも広げていきたいと思います。どうかよろしくお願い申し上げます。(大拍手) 5.経済危機に対する所感 ところで日本が現在直面している最も厳しい問題は、私たちの日々の暮らしと密接につながっている経済の動向であります。とくに中小企業や零細(れいさい)部門にたずさわっている人々が、この不況の波をもろにうけ、失業や倒産といった思わぬ暗礁(あんしょう)に乗り上げていることに対しては、私も深く胸の痛む思いであります。 今日の経済危機は、過去の一時的・循環的な危機現象とは異なり、現存の国内的・国際的経済機構そのもの、更にいえば人間の生き方それ自体が問われなければならないことは、すでに専門家の経済学者等によって、指摘されているとおりであります。 そうした問題については、私は経済の専門家ではありませんし、短時間で論じ尽くせることでもありません。ただひとこと所感を申し上げれば、この危機に対処する政府のとるべき道は、弱者救済をこそ最優先すべきであるということであります。そして長期的には、日本は「経済大国」の夢を追うのでなく、文化をもって世界人類に貢献する「文化の宝庫」とすべきで有ると思うのであります。日本には、それだけの独自の豊で深い文化の伝統があり、源泉がある。この文化立国こそが、ひいては日本の生きていく安全保障の道であり、積極的に世界に貢献していく最大の方途であると私は確信したいのであります。 さて今後の企業自身の生き方についていえば、もっとも大事なことは、それぞれの企業が、その製品について創造性と他にない特色をもつことでありましょう。とくに、このことは、国際市場のなかで日本の企業が生きるための最重要の課題であると申し上げたい。 これまでの日本の企業は、外国のアイデアをとって量産化し金をもうけていると悪評をかってきたようであります。これからはそうであってはならない。デザイン一つとってみても、日本には日本独自の伝統美があり、それは世界の人々を魅了するに足りるものが有るのであります。たとえ低成長であっても、また小規模であっても、他にかけがえのない独自なものを築き、堅持していくことが、これからの時代に生きる道であると考えるのであります。 このことは、単に企業が生きるために必要な道であるというのにとどまらない。それぞれの国と国のゆき方、文化のあり方そのものとも同じであります。そして、もっとも根本的には、それこそ広い意味での人間の生き方の理想であり、そうした自己の特質を明確にし、発現する道が「自体顕照」(じたいけんしょう)という仏法の教える理想に通ずると申し上げたいのであります。 6.創価学会の社会的役割 現在の我が国では「戦争を知らない世代」が、すでに過半数を占めている。しかも進行し続けているインフレや不況による社会不安が、放置しておけば戦争という破局的段階に進むであろうことは歴史の教訓であります。第二次大戦の前夜、一年一年の少しずつの積み重ねが、やがて坂道をころげるように国民を不幸と悲惨の極致にいたらしめた、あの愚を断じて繰り返してはならない。 戦後三十年のいまも、世界戦争への恐るべき底流は、決してなくなったわけではない。厳しくいえば、現状は火山の上で踊り狂っているようなものであります。 いま、私どもは、このように時代の動向の底流にあるものに対して、危惧の念をいだき、それを転換しなければならぬことを強く主張しておりますが、これを杞憂(きゆう)にすぎず、いたずらに不安をあおるものとする声も、一部にはあるようであります。しかし、ものごとは、それに直面してしまってからでは、対処の仕方が制約され、結局、押し流されてしまうことは必然の成り行きであります。 富木殿御書には「夫(そ)れ賢人(けんじん)は安きに居て危(あやう)きを歎(なげ)き、佞人(ねいじん)は危きに居て安きを歎く」(御書全集九六九㌻)と述べられております。一見、安泰のようにみえる社会にあっても、たえずその未来に対して思いをはせ、その社会にきざす崩壊への危険性を、いち早く察知していく人こそ、賢人であるとの仰せであります。これに対して、佞人、すなわちその場かぎりのことしか考えない口先だけの人は、社会の崩壊の真っただなかにありながらも、それに気づかず、見せかけの安隠に身を浸(ひた)しているということであります。 社会に責任をもつ人は、決して佞人のゆき方をしてはならないと、現代の指導者たちに対し申し上げておきたいのであります。 もとより、戦争の鍵そのものは、少数の指導者の手に握(にぎ)られていることは事実だ。しかし、その指導者を勇気づけ、平和への方向に動機づけるためにも、より多くの人々が平和を叫び続けることが大切であります。ゆえに私どもは、現代に生きる者の責任において、平和勢力として、いっそうの活動を展開してまいりたと思いますけれども、よろしくお願い致します。(大拍手) 御書に「涅槃(ねはん)経に云く『善男子是の大涅槃微妙(みみょう)の経典流布せらるる処は当(まさ)に知るべし其の地は即ち是れ金剛(こんごう)なり此の中の諸人も亦金剛の如し』」(御書全集七二㌻)とございます。 すなわち、大仏法の流布し、その精神の息づく社会というものは、いかなる時代の荒波にも損(そこな)われることのない、金剛不壊(ふえ)なる力によって潤(うるお)されているのであり、その社会に生活する人々もまた同様である、とのご聖訓なのであります。このご聖訓に照らし、私どもはそれだけの襟度(きんど)と責任感を自覚すべきであります。 時代は刻々と動いていく。天候の推移と同じように、晴れのときもあれば曇りのときもある。これからも、あるときは、暴風雨に遭遇するような場合もあるでありましょう。要はそうした変転に一喜一憂することなく、たえず原点を凝視(ぎょうし)しつつ正常な軌道へと引き戻していく力が、人々に備わっているかどうかであります。それは、生命のバイタリティーであるといってよく、そうした本源的な力を、民衆一人ひとりの心田に植えつけていくところにこそ、宗教のもっとも本質的な使命があると思いますけれども、いかがでしょうか。(大拍手) 創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を犯しつづける「力」に対する、内なる生命の深みより発する「精神」の戦いであると位置づけておきたい。またこれが、ファシズムを阻止する戦いの原点ではないかと思うのであります。その意味で、人間革命を標榜(ひょうぼう)する創価学会は、社会の安定にとって、今後ますますその存在価値を高めていくであろうと申し上げておきたい。 たしかに、民衆一人ひとりに肉薄(にくはく)していく作業は、一見地味であり、地味な忍耐強い戦いが求められます。しかし、偉大な仕事をするには時間がかかる。人間対人間の触発を通じて、自他の生命をみがきあげるという開拓作業が、一朝一夕に成就しうるものでは決してない。だからこそ、結果としてもたらされるものは、いかなる風雪にも朽(く)ちることのない金剛不壊なる生命の輝きなのであります。 もはや未来の時代というものは、こうした地道な努力しか方法はない。もしこれを冷笑するようでは、その人はいったい人類社会の今後にいかなる方法をもって臨むのかと、私は反問したい。 ともかく日々・月々・年々と激動しゆく社会であり、時代であります。今日のことは、明日忘れさられるという情報化社会でもあります。こういう時代こそ大切なことは、人々があくまで、じっくりと謙虚に思索し、語り合うことであろうと私は思う。単に今日・明日の問題を片づければそれでよいという姿勢ではなく、「文明とは何か」「豊かさとは何か」「生きがいとは何か」といった問題を、より長期的視野に立って模索すべきであります。現代社会の構造的危機は、まさしくそのことを要請しているといってよい。 一般に「行き詰まったときは原点に帰れ」といわれますが、人間にとって永遠の原点とは「人間らしさ」「人間の尊厳性とは何か」ということ以外にはありえない。その意味から私は、人間を根本とした民衆中心主義こそ、来たるべき世紀への道標でなくてはならないと考える一人であります。私どもは、その視点から、誰人とも話し合っていきたい。すなわち、現在もっとも根本的に要求されているテーマについて、対立抗争に陥りがちな政治主義の立場からではなく、腰をすえた未来展望の対話を進めたい。 権力主義・政治主義が横行し、武力を背景とした恐喝が国際政治の舞台に公然と登場する一方、人間主義・文化主義に根ざした対話が影をひそめている現代の現況をみるとき、私は西洋の王・ミリンダ王と、仏教者ナーガセーナの間に行われた有名な対話を思い起こすのであります。 これはご承知のとおり「ミリンダ王の問い」と呼ばれておりますが、ミリンダ王は西暦前二世紀にインドを支配したギリシャ人の王様であります。王はプラトン、アリストテレスの流れをくんだ明晰(めいせき)な頭脳の持ち主であり、一流の合理的・分析的発想を駆使して、当時のインドの哲学者をことごとく論破したという。この圧倒的な権力と理論の壁に向かって単身乗り込んだのが、青年僧ナーガセーナでありました。青年僧は王にまず対話の姿勢について宣言するのであります。 「大王よ、もしもあなたが賢者の論をもって対論なさるのであるならば、私はあなたと対論するでしょう。しかし、もしもあなたが王者の論をもって対論なさるのであるならば、私はあなたと対論しないでしょう」と述べた。ここでいう「王者の論」とは、権力主義的発想であります。意に従わない者に対して武力を行使しようとする考え方を「王者の論」としてその非を指弾し、いかなる解明・解説・批判・修正・区別も平等の立場で展開される「賢者の論」をもって対話しようとしたのであります。「賢者の論」とは、まさしく等しく真理を探究し、幸福を追求する人間同士の対論の謂(いい)であり、教育・文化といった一歩高次元の立場での議論であります。 ミリンダ王はナーガセーナのその言葉に、真理を探究する一人の人間として、以後三日間にわたって、真摯(しんし)に腹蔵なく語り合いました。その問答は、王のギリシャ的合理主義にもとづいた知識と、ナーガセーナの含蓄(がんちく)深い仏法を基とした知恵との、きわめて興味深い応酬(おうしゅう)として記録されている。この記録を知り、私は現代の危機の克服は、このような人間と人間との真剣な対話によってのみ可能であり、今もっとも求められているのは人間原点に立った対話であると主張するものでありますけれども、皆さんいかがでしょうか。(大拍手) 7.その他の諸問題 関連した話になりますが、創価学会はよくわからない、という意見の人がおられる。これは、一つには、仏法に対する理解が深まれば、わかってくださる問題が少なからずあると申し上げさせていただきたいのであります。 もう一つは、私どものほうでも、過去幾多の弾圧があり、必要以上に垣根(かきね)を高くして来たきらいがあった。また、布教や建設・開拓等に急なあまり、その垣根を取り払うゆとりがなかった面もあります。こうした垣根は、われわれの努力で取り払っていきたい。 また創価学会も、伝統が浅いためか、まだまだ未熟な面も多々あります。反省すべき点は反省もしていかねばならない。よき意見を謙虚に聞き入れ、さらに皆さん方が安心して信頼できる方向をめざしていきたいと深く念願しておる次第であります。また、社会の方々も、おおいに胸襟(きょうきん)を開いて語り合って頂きたい事もお願い申し上げます。わかって頂ければ、特別のことは全くない、きわめて常識の世界であります。一致点を見いだすことも有意義であり、不一致点を見いだすこともまた有意義であります。ともかく、思慮深い判断と先見性が要求される時代にあって、徹底して人類の根本的な原点に立った対話を進めていきたいものであります。 少なくとも、五年、十年という単位でみなければ、社会の趨勢(すうせい)をみることも、つくることもできない。せっかちな目先の現象で、分裂抗争を繰り返すのは、最大の愚であります。 ここで、この十月、八十六歳の偉大な生涯を閉じられたアーノルド・トインビー博士との対談が懐(なつ)かしく思い出される。博士は「やりましょう!二十一世紀の人類のために語り継ぎましょう!」と決然とした表情で語っておられた。その強い語感と厳しい表情が私には忘れられない。博士は、対話のなかで、文明の生気の根源が宗教であることを何回となく強調しておりました。まさしく、新しい文明のはつらつたる生気を復活せしめるものは、偉大な宗教であると、私達は確信しております。 ひるがえって人類文化の発祥(はっしょう)といっても、知られているのは、たかが数千年であり、それ以前は、ほとんど空白といってよい。ダーウィンの「種の起原」で動物から人間への進化をたどったとしても、それは未だ無限の奥行きをもつ生命の一断面をとらえた程度であります。また生命の起源・宇宙の生成発展ということも、科学において、一応、仮説的にとらえたとしても、ほんの仏法の窓口に立ったにすぎません。 仏法は、無始無終の生命観に立って、その久遠元初の本質観から一切を見通していく大哲学であります。 私どもは、この東洋の風土に長く流れきたった大乗仏法の真髄を、今日にいたるまで、実践をとおして掘り下げてまいりました。今ここに、明確に、この仏法の理念に、現代からの光線をあてるとき、国家や民族や言語の壁を越えて、人類の価値ある共同の財産とするにたるものであると申し上げることができる。この尊き仏法を胸中の誇りとして、人類に普遍化していくことこそ、私どもの努めで有りますし又、私共はそれを大きく責任を感じて又前進してまいりたいと思いますけれども、よろしくお願い致します。(大拍手) なお、いわゆる「十年協定」につきましては、本年八月二十日、壮年部代表者集会での私の話、すなわち「これによってなんらの具体的行動が成立するというものではなく、人類的視野に立って両者が合意できる点を確認したのである」「ここに盛られた緊張緩和、デタントの精神がどれだけ深化されていくかを、十年間にわたって試みていく考えである」「宗教と社会主義との共存ということは、まぎれもなく文明論的な課題である。双方、忍耐強く長い時間をかけて努力を続けていくべきものである」――こうした趣旨の話に一切尽きておりますけれども、皆さんご承知願うでしょうか。(大拍手) ◆日中平和友好条約の締結 なお、日中平和条約について、一言申し上げたい。今年は、私が、第十一回学生部総会において日中国交正常化への提言を行ってから七年、小説「人間革命」で日中平和友好条約の締結(ていけつ)を強調してから六年目にあたります。これは私達の、平和への熱願と、戦争の禍根(かこん)を未来世代へ残してはならないという、偽(いつわ)らざる真情の吐露(とろ)でありました。 周知のように、日中平和友好条約の締結は、いま一歩の段階を迎えておりますが、現時点における最大のネックは、いわゆる「覇権問題」(はけんもんだい)にあります。この問題に関して、すでに私は明確な見解を表明しておりますが、日中両国はもとより、アジア全体の平和のために、あえて再び強調しておくものであります。 それは一九七二年九月に調印された日中共同声明において「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とうたった精神を、一歩も後退させることなく堅持して、その精神を明確に盛り込んで日中平和友好条約が結ばれることを、私は重ねて主張したい。 ご承知のとおり、日本と中国との国交回復以来三年、創価学会としても、民間レベルの文化交流を通じて善隣友好の役目を果たしてまいりました。私もおよばずながら過去三回の訪中を果たし、たくさんの友人をえて、教育・文化・平和の次元で交流を重ねてまいりました。こうした日中友好の波動を更に高め、子々孫々にわたる人間交流の絆を、より強固にしていくためにも、願わくば一日も早く、日中平和友好条約が締結されることを、私は強く訴えていきたいと思いますけれども皆さん、よろしくお願い致します。(大拍手) ◆一人ひとりが創価学会の実体 次に梵音声(ぼんのんじょう)御書の一節を拝したい。「此の法華経の一字の功徳は釈迦・多宝・十方の諸仏の御功徳を一字におさめ給う、たとへば如意宝珠(にょいほうじゅ)の如し一珠も百珠も同じき事なり一珠も無量の宝を雨(ふら)す百珠も又無尽の宝あり、たとえば百草を抹(す)りて一丸乃至百丸となせり一丸も百丸も共に病を治する事これをなじ、譬へば大海の一渧(いったい)も衆流(しゅうる)を備(そな)へ一海も万流の味を・もてるが如し」云々(御書全集一一二一㌻)とあります。 この御文は、妙の一時の功徳について述べられたものであり、御本尊には釈迦・多宝・十方の諸仏の功徳を包含した偉大な功徳があることを教えておられるのであります。しかしいま、この御文を、日々組織の先端で活動する私どもの実践の姿勢に、あてはめるならば、百珠の如意宝珠・百丸の薬・また大海とは日蓮正宗創価学会であります。一珠の宝・一丸の薬・大海の一渧は皆さん方一人ひとりの働きであると拝することができるのであります。大海といっても究極するところ一渧の集積にほかならないし、その一渧に大海の一切が含まれているのであります。たった一つの如意宝珠であっても、一切の宝を生み出す無限の価値があり、一丸の薬に万病を癒(い)やす効能がある。どうか皆さん方一人ひとりが創価学会そのものであり、そのほかに絶対に創価学会の実体はありえないと確信していただきたいのであります。また、一人ひとりにそれだけの使命と資格があると説いておられるのが、日蓮大聖人の仏法であります。 あるフランス文学者が、フランスの名もない一人の市民の生き方について感銘したという、一つのエピソードを紹介しておりますが、人の生き方について色々と考えさせるものを含んでおります。 パリの東部にある墓地の一角に、小さい白い大理石のお墓が立っている。その墓石には次のような言葉が簡素に刻み込まれているという。 「ここにオーギュスト・シャルル・コリニョンねむる。……この人は善行を愛し、善行をなそうと努め、モンテーニュの『エッセー』と、ラ・フォンテーヌの『寓話詩』のモラルと教訓とをできる限り実践しようと努めながら、おだやかにも幸福な一生を送った」 コリニョンという人は、ごく平凡な市民の一人であったようであります。しかし、この墓碑銘(ぼひめい)を読んで感激した人々は「コンコードの哲人」とたたえられたアメリカのエマーソンなど数多いという。このフランス文学者も、名もないフランスの一市民・一農民が、モンテーニュを範とし、デカルトの生き方にも通じるような一生を、自分自身の行動と努力によって築き上げたということに、心から感動したと書いてあります。 私たち創価学会の運動は、無名の庶民の手によって行われております。市井(しせい)の人々が、深遠な仏法哲理を自らの意志に基づいて学び、実践している事実は、偉大なことであります。パリの一角に眠る墓石の主人公は、モンテーニュやデカルトの哲学を範として生涯を終えたわけでありますが、創価運動の担い手である名もなき多くの庶民は、御書を範とし、深遠な仏法哲理を体現する一生涯を、自分自身の行動と努力によって築き上げようとしておるのであります。 私は、皆さん方が縦横無尽に戦えるよう、心より応援してまいりますし、そのためにも道も切り開いてまいる決心であります。ますます深刻化する現代の暗雲のなかにあって、どうか、皆さん方一人ひとりが、功徳に満ちみちた希望の存在となっていただきたい。そして金剛不壊の団結をもって、社会に絢爛(けんらん)たる福運の大樹を育てていって頂きたいのであります。 私は来年もまた、国内・国外ともに皆さま方の激励のために行かせて頂きたいと思っておりますので、よろしくお願い致します。(大拍手) 最後に、この十五年間、私を支え、守り、学会の発展に寄与して下さった会員の皆さま方に対し、私は、ただ「感謝」の二字しかありません。ただ、御本仏日蓮大聖人の照覧は、明鏡に照らして絶対であり、釈迦多宝の二仏、十方の諸仏の証明も必然であります。 この私どもの福運と功徳は、子々孫々、末代までも語り継がれることでありましょう。偉大なる地涌の友に栄光あれと念じつつ、あわせて皆さま方の一層のご健康を心よりお祈り申し上げて、私の話とさせていただきます。長時間ありがとうございました。(大拍手) *音声データを元にテキスト化してあります。