池田先生ご指導の学習(9)


副題『真実のご指導』

第37回本部総会における池田会長の講演
(昭和49年11月17日 名古屋・愛知県体育館)
LP音声


◇世紀の転換期への指標
本部総会の運営にあたり、愛知の幹部諸兄には、なにかとお世話になり、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。(大拍手)
すべて皆さま方のおかげで第三十七回本部総会が、日達上人猊下ご臨席のもと、かくも盛大に開催できえましたことを、ともどもに喜び合いたいと思います。おめでとうございます。(大拍手)
また、ご来賓の皆さまには、ご多忙のなか、わざわざご参集いただきまして、まことにありがとうございました。全会員を代表いたしまして、厚く厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(大拍手)
本年は各地の幹部会等において、いくつか信心の指導的な話をしてまいりましたので、本日は小一時間ほど、私の所感を述べさせていただきたいと思っております。
まず最初に本年十二月二日は、日達上人猊下の御登座、満十五年にあたり、この席をお借りして会員一同を代表しまして、衷心よりお祝い申し上げるものでございます。まことにおめでとうございました。(大拍手)
また、この十五年間、宗門史に前例をみない正法の興隆、そして創価学会の発展は、すべて現猊下のご高徳のたまものと深く感謝申し上げるとともに、今後ますますご健勝であられんことをお祈り申し上げるものでございます。
また本日は、新たなる宗門・学会への甚深のご指南・ご構想をお示しくださり、ここに私どもの路線は、更に明確なものとなりました。もとより私どもは非力ではありますが、今後とも血脈相承の日達上人猊下をお守り申し上げ、今日のご指南・ご構想の実現のために、全力を挙げて挺身(ていしん)していく覚悟でございます。

◆創価学会の存在意義
さて十一月といえば、昭和五年十一月十八日が、故牧口初代会長の「創価教育学体系」が発刊された日であり、創価学会創立の記念すべき月でもあります。また、今から三十年前の昭和十九年十一月十八日は、牧口会長が、時の軍部政府の弾圧のもとにあって、壮絶な広宣流布の戦いの末、獄中にその生涯を閉じられた日でもあります。
私どもにとって永久に忘れることのできないこの十一月十八日を前に、本日、昭和五十年へのスタートを切るこの総会において、私は、再び未来の広宣流布に向こう私たちの進路を明確にしておきたい。
それは、創価学会が民衆の中から生い立ち、民衆の中において自発の意志で盛り上がってきたという事実に基づき、永久に民衆の側に立つものであり、権力の側に立つものではないということを、ここではっきりと確認したい。これまでにも「平和」の二字を掲げながら幾多の勢力・団体が、時代の波とともに浮沈していった流転の姿を思うとき、それらの多くが権力のなかに組み込まれ、利用されていった悲しむべき事実を知っているからであります。
そのなかにあって、宗教ほど、いざというとき、偉大な力を発揮するものはありません。また、その反面、時により社会的に宗教ほど弱い存在はありません。
この「強」と「弱」の間を振幅させるものは何でありましょうか。それこそ一方は、人間精神の強靱(きょうじん)さであるとともに、一方においては、正義を忘れ、いつしか安逸に堕する人間のもつ業(ごう)であると言えるかもしれない。
この「人間」そのものに、仏法という生命哲学の背光を当て、心と心の深みに、連帯のバネを与えてゆく「人間革命」運動、すなわち、人間の側から、平和実現に絶え間なき挑戦をなしゆく団体、これこそ創価学会という運動体であると、私は申し上げておきたいのでありますけれども、皆さん、いかがでありましょうか。(大拍手)
私は、その人類の希求してやまない平和の実現に向かって、一歩でも近づけたいという決意から、教育・文化という次元で、来年も世界を駆け巡りたい、と思っておりますが、よろしくお願い申し上げます。そして日本にも、たびたび帰り、今まで以上に頑張りますから、ご安心してください。(大拍手)
日本の創価学会は、このたび、代表役員となられた北条理事長を中心に、仲良くスクラムを組んで進んでいかれますよう、心からお願申し上げます。
ところで明年一九七五年は、昭和五十年でもあるわけであります。一九二六年十二月二十五日、「昭和」と定められたこの元号(げんごう)は、中国の古典の一つである「書経」の堯典(ぎょうてん)にある「百姓昭明(ひゃくせいしょうめい)、万邦協和(まんぽうきょうわ)」の一句からとられたとされている。古(いにし)えの中国には百の姓名があったといわれ、そこから百姓とは人民・民衆を意味します。すなわち「昭和」という元号は、全民衆が幸せになり、万邦つまり全世界と協調して平和を実現していこうとの願いを、あらわしたものであったのであります。
しかし、現実には前半の二十年間は、国家主義の強大化によって、百姓は物質的にも精神的にも抑圧を被り「百姓昭明」どころか、暗雲に閉ざされた時代を経験しなければならなかった。対外的にも、軍部の支配下に、中国・ソ連・そしてアメリカ・イギリスなど世界の万邦を敵として、戦いに明け暮れたのであります。
この不当な国家主義・軍部支配体制は、敗戦及び占領政策によって崩壊し去った。そして民主憲法が制定され、国民の思想は大転換を遂げ、さまざまな民主化運動が起こり、敗戦後の苦しみのなかにも、日本全国津々浦々に新生の息吹がみなぎってまいりました。
だが、それも三十年経った今、冷静に振り返ってみるに、果たして日本は、真に民主化の道を歩んできたといえるかどうか、それは制度上・外見上ではなかったのか、はなはだ疑問とせざるをえない現状であります。むしろ昭和初年の社会不安に酷似する状況のもとに、新たなるファシズムの機運が盛り上がっているとも考えられる。
あたかも深まりゆく混乱の昭和初期に、創価学会が初代牧口会長、二代会長戸田先生によって呱々(ここ)の声をあげたように、今再び私ども創価学会員は、草創の原点に立ち戻るべきであると、私は申し上げたい。
当時は、学会という存在は民衆を守り、国の行く手を正しく導くにはあまりにも小さかった。軍国主義権力の圧力のもとに壊滅せざるをえなかった小さい存在であった。しかし、今日、創価学会は、全人口の一割を超えるに至り、もし私どもが立ち上がるならば、民衆の声・民衆の力・正義の叫びを結集して、二度と日本を誤った道に踏み込ませない社会的歯止めになりうるでありましょう。また、なんとしても、そのような存在でなくてはならない、と強く私は確信していきたいと思いますが、皆さん、いかがでありましょうか。(大拍手)

◆核兵器への姿勢
世界平和への日本の、なかんずく私どもの使命ということに関連して、ここで、いわゆる「核」の問題について、人類の未来のために一つの考察を、ともどもにしておきたい。
核兵器の貯蔵量は、増大と拡散を続けており、つい先日の国連における報告によっても、アメリカだけでも広島型原爆に換算して、なんと六十一万発以上に相当する、核兵器が所有されているとのことであります。広島では、一個の原爆が一瞬にして十万人もの死者を出しており、今単純な算術計算によっても、アメリカは六百十億人以上もの人間を一瞬のうちに抹殺することができる。これは全人類を十六回も殺しうる量であります。
ほぼこれに匹敵する量をソ連も持っており、更にイギリス・フランス・中国・インドが核保有国として名を連ねております。その他、核を持とうとしておる国は少なくない。日本も自身では保有こそしていないにしても、アメリカの「核のカサ」のもとに、やはり自国の安全保障を求める立場をとっている。なぜ、それほど核を持たなければならないのか。
核兵器を持つこと、あるいは、そのもとに身を寄せることが戦争の歯止めになるという核抑止理論がまかり通っておりますが、考えてみると、これほど愚かしい理屈はないのであります。なぜなら互いに刃物を突きつけ合っていて、その恐怖心が平和維持の力になっているというのと、同じだからであります。
心ある人々が、しばしば警告していますように、偶発・誤算・狂気によって、いつどこの国がこの恐るべき凶器を利用し、それが発端で人類の絶滅を招くかもしれない。
早い話が核ジャックが起きたらどうでありましょうか。たんなる杞憂(きゆう)といっていられない現実的な重要な問題であります。もはや、現在の核の量は核管理の限界を越えていることを指摘する人も少なくない。近き将来、核による均衡(きんこう)などといっていられない、世界の民衆を恐怖のどん底に追いやる事態さえ、容易に予想されるのであります。
したがって、今こそ人類は「武装による平和という野蛮な愚かしい思考法」から「武力放棄による平和という文明人の思考法」へと脱皮しなければならない。すなわち「恐怖による戦争抑止」という考え方から、「相互理解と信頼による真の平和樹立」という考え方へと、根本的に発想を転換すべきであると思いますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
その第一歩としていかなる国の核兵器の製造・実験・貯蔵をも禁止すること、そして核兵器をこの地上から一掃することへ、最大の努力を傾けるべきである事を、私どもは訴えたいのでありますけれども、いかがでしょうか。(大拍手)

◆核兵器絶滅へ平和の波動を
今から十七年前、昭和三十二年九月八日、恩師戸田前会長が、遺訓の第一として「原水爆に対する宣言」を述べておられます。私どもの核兵器に対する態度は一貫しております。そしてこの恩師の遺訓を虚妄(こもう)とすることなく、青年部の有志諸君は、核兵器全廃を訴える一千万人の署名を集めました。私はここに込められた民衆の熱願を代表して、国連および各国の指導者に呼びかけておきたい。
一つは、すでに小説「人間革命」でもふれたことでありますが、現在、核拡散が進み、二十か国近い核潜在保有国が挙げられているほどの厳しい事態をふまえて、今こそ一歩進めて、現在の核兵器を持っている国・持たない国を問わず、全世界の各国の最高責任者が一堂に会して、首脳会議を開催すべきであるということであります。たとえ、その会議が何か月かかろうと、何年かかろうと、結論を生むまで会議を続行すべきであります。そして、その場合、唯一の被爆国である日本の世論を尊重すべきでありましょう。
あの広島・長崎の悲惨な歴史的事実は、単に日本の悲痛な経験であるばかりではなく、人類の貴重な経験であるはずであります。日本自身から強い信念と、勇気とをもって、核兵器全廃に向かって必死の努力を続けるべきであります。これが日本の、人類の未来に対する歴史的使命であり、未来人類に何を贈るかといえば、これほど価値ある仕事は他にないと思いますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
二つには、この問題に関しては、先ず国連事務総長がイニシアチブをとり、各国首脳会議をはじめ、核兵器の管理から廃棄にいたるすべてについて、強い発言権と指導権とをもつべきであると言いたい。
そのためには、その大前提として、いかなる国の為政者も民衆も、核兵器を持つ事が国家の威信を高めるなどという妄想(もうそう)を捨てて「核兵器こそ、人類の不幸をもたらすサタンの産物である」という発想に立つべきであります。
そして、切実に平和を願う世界の民衆の力を結集し、この世界市民的な民衆の英知が、国連と大国の動きを監視し、それに対して大きな規制力を持たなければならないと、私は思うのでありますけれども皆さん、どうでしょうか。(大拍手)
本年五月、アンドレ・マルロー氏と話し合ったときに、氏は、国連はすでに亡霊化していると述べておりました。また、中国の李先念(りせんねん)副総理も、国連は演壇場になっているということも言っておりました。たしかに現状はそのとおりであります。だが、蘇生(そせい)不可能とあきらめるのはまだ早い。そのように国連を無力なものにしているのは、いったい何か。
それこそ大国をはじめとする各国の国家エゴイズムにほかならない。各国は、それぞれ、その国家主義的民衆の力を支えとしている。国連には、それを支える世界市民的民衆の力がない。
したがって、この世界市民的民衆の力の結集こそ、国連を亡霊化から救い、単なる演壇場から、実行力ある世界的機関へと脱皮させる本源力であると、私は考えておるのでありますけれど、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
きわめて素朴でありますが、平和を願う庶民の気持ちは、この恐ろしい兵器を地上から無くすことはできないのか、ということであります。私は、現在の科学の水準をもってすれば、それは決して不可能ではないはずだ、と申し上げたい。それをはばんでいるのは、政治の力だけであって、科学の力ではないのでありましょう。科学者の意見を最大に反映していけば、解体した核を、人類の幸福に役立つような方途に、生かしていくことも、できるはずであります。
それにつけても、核物質自体を国連の監視下に置き、その利用についての平和利用を明確にする必要があると考える。また、将来のエネルギー問題について、科学者の世界的会議の設置をお願いするとともに、これからの科学者は、国家の代表としてではなく、人類的視野に立った代表として発言し、行動すべきである、と言っておきたいのであります。そして各国のすべての科学者は、一人残らず核兵器の研究から手をひき、今後、絶対に加担せぬよう、強く要請するものであります。
来年は日本に原爆が投下されてから、満三十年を迎える。また、二年後の昭和五十二年、すなわち一九七七年は、恩師の遺訓から数えて満二十年にあたります。そこで来年、昭和五十年をはじめとして、五十一年、五十二年と、この三年間を一つのステップとして「平和波動の年」と定めて、平和へのうねりを高めていく運動を、青年部・学生部に期待したいと思いますけれども青年部・学生部、いかがでしょうか。(大拍手)
青年部・学生部の代表、賛成の人は手をあげてください。(挙手)
私どものこのような運動の一つの波は、やがては全人類の波動となり、総意となって、核兵器の絶滅に至るまで続けていかねばならない。ともあれ、恩師が遺訓の第一として叫ばれた、その声明が、今ほど切実感を帯びて迫ってくる時代はないのであります。

◆食糧問題解決の方途
今、申し上げた「核問題」とともに、もう一つ二十一世紀の人類の道を切り開くグローバルな視点から、今日、早急に解決への方途を、模索しなければならない重要な議題に「食糧問題」があります。
すでにテレビのニュースや新聞報道をとおして、よくご存知のように、インド・バングラデシュ・アフリカなど、いわゆる発展途上国では、たびかさなる干ばつや洪水によって、極度の飢饉(ききん)を招来し、我々の想像を絶する多数の人々が、餓死状態に追い込まれております。同じ地球上に住む人類の一員として、また仏法を行じ実践する一人として、こうした事態を深く胸を痛めるものであります。
去る五日から昨十六日まで、国連によりローマで世界食糧会議が行われ、世界的な食糧危機打開への討議がなされましたことは、皆さまご存知のとおりであります。私はその推移を、強い関心をもって見守ってまいりましたが、国家を代表する閣僚級が参画する初めての世界的な会議であり、その意義はきわめて大きい。率直に関係者の努力に賛嘆を惜しまないものであります。しかし同時に、これほど焦眉(しゅうび)の急を要する問題に、やはり国家間の利害と思惑(おもわく)がからんでいたことは残念でなりません。
というより、むしろ、今回の食糧危機が、国家の取引・政争の具に供された感さえある。「食糧戦略」なる言葉が平然として横行していること自体、恐るべきことであります。核物質による世界戦略を武力による攻撃としてみるならば、食糧を戦略に使うことは、まさにその昔、城攻めの際、直接手を下さずに城内の兵を餓死させる「兵糧攻め」そのものと同じであります。人間の生きていくべき基本条件さえも、戦略の具に供するという考えがあるとするならば、天をも恐れぬサタンの行為であるといわざるをえない。もはや人類は、食糧を、戦略の具に利用するべき時では絶対にない。それは必ずや、自らを死地に追いやる結果を招来するものであろうからであります。
世界食糧会議の予備討議資料のデータによりますと、十年後の一九八五年までには、世界人口の五分の一にあたる八億人が栄養失調に直面することになるといわれております。このデータを、一応ひかえめな仮説として受け入れるとしても、先進諸国として決して楽観は許されない厳しい状況にあることを、深刻に認識する必要がある。もはや、人類は核兵器を作ったり、戦争やその準備などに知恵を使っている時ではなくなった。どう人類が生き延びていくかに、一切の知恵を発揮していかねばならない、切実な問題が横たわっているのであります。
こうした観点から、今回の食糧会議の模様をみてきますと、どうも発想の原点を誤っている論争もあったように、私には思われる。それは、各国を代表する会議の参加者たちが、現実に飢餓線上にあって、今日死ぬか、明日まで命がもつかといった人々の苦しみよりも、それぞれの国家利益が優先されていたということであります。
この会議の開催期間中テレビでは、ビアフラ等の悲惨な飢餓の画面を放映しておりました。今回のビアフラ飢饉では、五万人もの餓死者を出した、といわれるその場面を見て、私は胸がつぶされるような思いでありました。一方では、複雑な大国の利害が交錯(こうさく)する食糧会議をやっている。他方では、現実に幾多の餓死者を出すという世界がある。
かつてフランスの作家にして哲学者ジャン・ポール・サルトルは、このようなアフリカの飢えたる民衆に対して「文学はいったい何をなしうるか」という問題を提起しました。たしかに、今日にも飢えで死んでいく人に対して、文学者のみならず、世界の政治家も、有り余るほどの富を持つ大金持ちも、そして食糧会議に集まった各国の参加者達も、今すぐには、現実的になんら有効な手をうてないのであります。
したがって私は、ここで、食糧問題に関する基本的な討議の姿勢について確認し、全世界の人々が等しく守るべきことを、ともどもに考えておきたいのであります。
それは「何を要求するかではなく、何を与えうるか」に発想の根本を置くべきであると、いうことであります。各国が争って要求し、駆け引きをし、奪い合うのではなく、今すぐに各国がまず「何ができるか」「何をもって貢献できるか」ということから、話は始めなければならない。その姿勢があってこそ、差し迫った食糧危機も、また恒久的な食糧問題の解決にも、暁光(ぎょうこう)が差すであろうことを、私は信じて疑わないのでありますけれども皆さん、この点いかがでしょうか。(大拍手)
また、今申し上げることと関連しますが、世界の食糧問題を討議する会合は、次回からは最も食糧問題で苦しんでいる当の現地で開催してはどうかと、提案もしておきたいのであります。(大拍手)
今まで、今述べました会議についての原則と同様に、援助という問題についても、その基本線を明確にしておきたい。これまでの先進国から発展途上国への援助の性格をみますと、必ずギブ・アンド・テークという先進国のための、なんらかの見返りを期待した行き方であった。……というよりは、厳しくいえば資本侵略といってよい。
例えば、経済援助をするという背景には、必ず軍事基地や核を装備した船舶の停泊港の獲得をしようとする目的があったのであります。こうした行き方では、もはや人類は共倒れにならざるをえない事態に直面することは必至であります。このようなギブ・アンド・テークは抜本的に改めなければならない。
次に、経済大国をもって任ずる日本も、世界に対して「何をなすべきか」の視点から、さまざまな確たる方針を立てるべきでありましょう。
まずその第一は、農業技術の援助であります。食糧問題の根本的な解決は、発展途上国の自力による更生にかかっている。特に飢餓状態にある地域には、日本と似た条件をもつ国も多い。故に日本の農業技術は大きな力を発揮することは疑いありません。恩師戸田城聖先生は、すでに二十年も前、日本がこれからの世界に貢献する道として、技術移民が第一義であると喝破(かっぱ)されておりましたが、まさに日本でつちかった技術をもって、発展途上国の人々に尽くすことを本気になって考える時代に入っていると私は思う。
第二に、これは基本的な問題でありますが、今日の食料の危機の一端を、日本の農政の在り方自体が負(お)っていることを知るべきでありましょう。日本の食糧の自給率はきわめて低く、大半を輸入に頼っておる。輸入に依存する率は世界一であるといわれております。
もちろん、日本は元来、資源等に乏しい国でありますが、それだけ輸入を多くしておきながら、一方では、米のとれすぎで減反政策をしき、農業人口を極端に減らしている。工業重点主義によって得た金力にものをいわせて、他国が得るべき食糧をかすめとっていると言われても、しかたのない現状であります。農業を軽視する現在、わが国の行き方を改善し、食糧の自給率を高めていくことが、口先でない責任ある行為ではないかと私は思うのであります。
第三に、私たち民衆も、食糧問題を他国のこととして傍観視してはいられない。昨日は人のうえ、今日は我が身の上となる日が、いつしか来ることを心配する。私としても、仏法者の良心のうえから、なんらかの手を差しのべたい。今飢餓に苦しんでいる国々は、いわゆる大国の有り余った食糧を買えない現状であります。これに対しては、私たちは、なんらかの貢献ができうるはずであります。私は、その具体的な検討及び実施を、再び青年部・学生部の諸君に託したいと思いますけれども、諸君どうだろうか。(大拍手)
重ねて申し上げますが、日本がこのまま、なんの方策もなく進めば、かりに一切の穀物輸入が途絶えてしまえば、今の発展途上国以上の飢餓の苦しみが襲ってくるのは目にみえているのであります。ゆえに、このへんで、日本は時代を先取りして、人類のために貢献する道を、正々堂々と歩んでいく必要がある。

◆「世界食糧銀行」構想に慈悲の理念を
そして私は更に、この「何を与えうるか」という思想を世界に訴えかけ、その精神にのっとった機構の盤石(ばんじゃく)な設置を強力に要請しておきたい。それが今回の食糧会議でも議題になりましたが「世界食糧銀行」の構想であります。
この性格を簡潔に述べますと、いわば世界の食糧の安全保障、配分機構のセンターとして、具体的施策を即座に実行に移していく機関ということであります。これは、当面の問題としては、現在、飢餓に悩む発展途上国に対して、食糧を供給配分していくことになりましょう。具体的には、余剰食糧のある諸国から廉価(れんか)で買い入れ、不足している諸国へ安価で、場合によっては、長期の融資を含めて供給することも考えられる。
抜本的には、当然それらの国の自力更生を促すことが最も重要ではある。そのために農業技術の指導と、更にその開発にもあたっていくべきであります。これは私もかねがね考えていたことであり、幾多の指導者・識者とも語り合ったことでもありますが、ようやく世界は、その方向に動きつつあるようであります。
したがって、私が「世界食糧銀行」について申し上げるのも、識者に検討をお願いするということであって、むしろ私が主張したいことは、その基盤となる理念・思想なのであります。すなわち、それは援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人々の生存の権利を回復するというものであり、あえていえば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという「抜苦与楽」の慈悲の理念であります。抜苦与楽とは、苦を抜き、楽を与えるということである。そこには、それによって、なんらかの償いをうるという姿勢ではまったくありません。
更に苦を抜くということは、相手の苦悩の根源を抜くということでありますから、いわゆる対症療法というより、原因療法ともいえる。その当然の帰結として、各人の自立を図っていくものであります。これは、個人にあっても社会にあっても同じであり、社会でいえば、その社会が、自力で立ち上がるように、その苦悩の根本原因から解決を図っていくものであります。すなわち、楽を与えるといっても、一時的なものではない。どんな事態にあっても揺るぎない、必ず道を開いていく生命力、生命の全基礎力そのものを引き出していくものであります。
したがって、援助を受ける諸国の立場をあくまでも尊重し、その土地の自然条件や文化的伝統をも十分にふまえた対策が必要であることはいうまでもありません。ともに、その国の指導者の賢明な配慮を待たなければならないことも当然であります。
いずれにしても、たとえば「食糧銀行」をつくるとしても、その成否は先進国・発展途上国を問わず、全世界の指導者たちが、自国の利益よりも飢餓に苦しむ人々の苦悩を、わが苦悩とし、その生命の痛みから、何をなすべきかという行為へと、移るか否かにかかっていると思いますけれども、皆さんいかがでしょうか。(大拍手)
私はあくまで人間の英知を信じたい。全人類が衆知を結集して、食糧確保の問題に関して、全世界の可耕地の拡大・農業技術の開発・更に人口抑制問題など真剣に討議するとき、道は必ず開けるものと確信するものであります。今必要とされるのは、グローバルな見地に立つとともに、国家エゴイズムを捨てて、人類の生存という一点に協力体制をしいていくことに尽きると思うのであります。
以上、核兵器と食糧の二つの問題について、私どもの理念に基づく提言をいたしましたが、今、最も世界が必要とするものは、不信を信頼に変え、断絶を相互理解へと変えていく、民衆と民衆との間に広がる連帯の力であります。私は、これまで国際間には、この力があまりにも欠如したことを痛感する一人であります。
より深く仏法の目で世界の実情の奥にあるものを考えれば、人類の苦悩の根本原因は、人類自身のなかにある。すなわち慈悲の欠如にこそ、その淵源(えんげん)があると思うのであります。やはり、この一点については、末法の御本仏日蓮大聖人の御金言の重みが、胸に迫ってまいるのであります。上野殿御返事には「慈悲なければ天も此の国をまほらず・邪見なれば三宝にも・すてられたり」(御書全集一五五二㌻)とあります。
一切の災いの根源は、慈悲なく邪見なるがゆえに起こるとのご指摘なのであります。世界の現状と未来を思うにつけ、慈悲というものを、今後の人類の新しい思想の因子におかなければ、一切は水泡に帰するという世紀の転換が、現実に訪れておると思いますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
又、それゆえにこそ、ここに平和勢力としての、仏法を基調にした創価学会の運動の存在意義が、浮かび上がってくると申し上げたいと思いますけれども、この点もいかがでしょうか。(大拍手)

◆開かれた家庭
次に、明年の「家庭の年」ということについて、ひとことふれておきたい。
それは、家庭こそ、人間が文化を生み出して以来、その生活の基盤としてきた、最も基本的な社会の単位であり、特に現代において求められる人間復興の土壌だからであります。先程らい、この点については、種々ふれられておりましたので、私から一点申し上げたいことは「開かれた家庭」ということであります。
私どもが家庭の重要性を強調するのは、家族制度のうえに成立していた、かつての封建的な家庭という意味ではありません。封建的家庭観を排斥せざるをえなかったのは家が個々の人間よりも権威と力をもち、人間性を抑圧してきたことに、その根本原因があったのであります。
真の家庭とは、つまり私どもの目指す家庭の在り方とは、家庭の一人一人の人間性を豊かにし、人間としての尊厳を互いに高めるためにあると思うのであります。人間が家の部分で、人間の上に家が君臨し、人間性を抑圧した封建的家庭が閉じた家庭であるのに対し、人間性の向上と涵養(かんよう)のための家庭こそ、開かれた家庭でなければなりません。
そのような開かれた家庭とは、現実社会から逃避した、いわゆるマイホームではなく、そのままが社会の縮図であります。すなわち家庭のなかで行なわれていること、そこで学び、身につけたことが、そのまま社会に出て、生きてくるものでなくてはならない。
もちろん、家庭は安らぎの場である。新しい心身ともにわたるエネルギーを補給してくれる、疲れをいやす場でなくては当然なりません。だが、外の不快さを、家庭のなかで憂さ晴らしするものであってはならない。また、家庭のなかでは、わがままで暴君で、そうした家族の犠牲のうえに、社会的に活躍しているという行き方も、表面はいいようにみえても、人間的には卑しく醜いといわざるをえないのでありましょう。
ともあれ、家庭は人間にとって生活の基盤であり、社会に価値創造をしていくための活力の源泉であるとともに、もっと掘り下げていえば、家庭の幸福こそ、最も万人に共通な幸福の条件といえるのであります。戦後の社会は工業化、都市集中、過密による住宅難が重なって、核家族化ができあがり、更に夫婦共働きといった現象にみられるように家庭の幸福を犠牲にして、経済大国への道を走ってきたといっても過言ではないようであります。すなわち、庶民の最も基礎的な幸福の条件を無視し、むしろ犠牲にすることによって築かれた国家の繁栄であるといってよいのであります。
とするならば、庶民が自らの幸せを求め、これを確たるものとするレジスタンスの原点は、家庭の幸福を絶対に取り戻すことにあると私は思いますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
それこそ自己の幸せのためならず、この社会を人間性豊かな、人間の温かさに満たされた社会にしていく、庶民の粘り強い無血の平和運動といえると、私は信ずるのであります。
昨年末の石油ショックが引き金となって、今年一年、公共料金も、お米も、その他あらゆるものが、恐ろしいほどに値上がりしてまいりました。しかも産業界では中小企業の倒産が続出し、不況の波は大企業にまで及ぼうとしているようであります。
そうした不況を予測してか、来年は賃金の引き上げを抑制すべきであるという声も、政府・財界の中で出ているようであります。言い換えると物価の値上がりと不況との二つの圧力が、庶民の生活をジリジリとはさみつけてくるということであります。これは弱肉強食の自由経済がもっている宿命のようなものでありますが、そこで最も被害を受けるのが、庶民の生活である。
したがって、そのうような社会にあって、どのようにして家庭を守るか。ま、いろいろありますけれども、端的にひとこと申し上げれば、それは必要のないムダを極力はぶくことしかない、それしかなくなってきたようであります。今日までの経済成長策は、庶民に消費欲をあおり、ムダな品物を買わせ、投資させることによって成り立ってきたともいえるのであります。そうした仕組みのなかで、庶民が当面被害を最小限に食いとめるためには、ムダ遣いをなくし、堅実に、計画性をもって家庭経済を営んでいく以外にないわけであります。
もっとも日本の為政者たちは、これまで「消費者は王様」といってあおっておきながら、急に豹変して「倹約は美徳」などといっていることは、あまりにも身勝手なことであります。しかし、どうしても私たちの家庭は守らなければならない。したがって、主婦の方は、予算配分をきちんとして、賢明にこの悪世に対処していっていただきたいのであります。お願い申し上げます。(拍手)
そして庶民の知恵と結束によって、大企業やそれと結びついた権力が、庶民の心に従っていかなければやっていけなくなってしまった。っていうような時代を作ることが涵養であると思いますけれども、皆さん、どうでしょう。(大拍手)
一時、騒がれた公害も、物価にお株をとられて、いつの間にか忘れられるようになってきておりますが、昨今の日本の現状で、この様に一番、物価高が問題となっておりますが、庶民が、自らの生命と生活を守るための汝自身の擁護のための先駆の戦いを、どうしても私共庶民は、団結して粘り強く着実に繰り広げていく以外にないと思うのであります。

◆インフレについて
これに関連してインフレの問題について若干考えてみたい。この数年のインフレ傾向は、もはや日本だけの問題だけではない。先進諸国は一様に物価上昇と賃上げの悪循環のほかに、物は有り余っても物価は下がらない。まったく打つ手もなく、あの一九二九年の世界的大恐慌を思わせる、世界不況の破局が到来するのではないかとさえ、予感におびえておるのであります。
この世界的インフレの直接的な原因は、アメリカがベトナム戦争に膨大な戦費をつぎ込み、世界中にドルを湯水のようにたれ流したことのうえに、昨年の中東戦争に端を発した、石油危機が突風のように日本や西欧諸国を襲い、わずか一年間のうちに石油の値段が四倍にもハネ上がってしまった。これが決定的な要因と一応はされております。しかし、現在のインフレは、これまでのインフレとは、ずいぶん違った深刻な様相を呈している。国際的な経済構造はまったく行き詰まって、しかもどうしようもない。
もはや、これまでのケインズ理論などは、説得力を喪失してしまい、この複雑な様相を前にして経済学者達は途方にくれているのが、偽ざる現状であります。つまり、事態は経済政策の世界的転換を迫っているといってもよい。この危機にさいして明確になってきたことは、地球の資源は有限であり、これまでの消費型・膨張主義高度成長型の行き方は、エネルギー資源の枯渇を生み、やがて人類の生存をおびやかしているということが分かったのであります。
これが、現在の世界的な経済危機の最大の根本原因であり、加えて資源の貧しい日本の場合、戦後、一貫してとられてきた高度成長政策・大企業中心政策・流通機構の複雑さ等が、世界一高率の物価高騰をもたらしておるとも考えられるのであります。
先ほど、節約についてふれましたが、この不況を乗り越える庶民の自己防衛のために必要だから申し上げたものであって、これが大企業中心的に利用されてかえって大量の失業者を出し、庶民にしわ寄せがくることを、私は恐れる。真に大切なのは、国家次元の節約、すなわち膨大な四次防計画などにみられるような、軍備の際限ない増強こそ、節約をすることが第一義であると、私は申し上げたいのであります。(大拍手)
これは、単に一国の次元ではなく、世界的次元でも考える必要がある。世界各国の膨大(ぼうだい)な軍備による膨大な消費こそ、節約すべきものの第一でありましょう。この抑制と節約によって、現在の世界的な公害・人口・食糧・エネルギー・資源に関する難問題も、解決の糸口をうるにちがいないと私は思いますけれども、皆さんどうでしょうか。(大拍手)
まことに現代文明は消費型文明でありますが、今すぐにでも循環型文明へ、欲望拡大型文明から欲望調和型へと勇断をもって転換が図られなければならない、この問題の抜本的解決は、いつまでたってもなされないというのが私の主張でありますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
しかし私は今、その詳細を論ずるつもりはありません。またその立場でもない。私は皆さんとともに、政府に、ぜひこれだけは訴えておきたい。
それは大企業擁護だけで、己が政権の座の安泰に執着しているのでは、必ず早晩手痛いしっぺ返しを受けるであろう。このような無慈悲な姿勢がいつまでも続けられるわけがない。今、現実に多くの中小企業が倒産し、社会不安は、ますます増長する一方である。この時にあたって、政府は多くの庶民を守り抜き、今すぐにでも中小企業の擁護に全力を挙げよ、それもできないようでは、為政者として、もはや失格であると申し上げたいのであります。(大拍手)

◆生涯教育をめざして
次に「教育の年」ということにかんがみ、先ほどの活動方針と若干重複するかれしれませんが、「生涯教育」ということについて一言、述べさせていただきます。
お子さんのいらっしゃる家庭の場合、人格形成こそ家庭教育の根本でありますから、この人格の基本にかかわる教育というものは、どうしても両親の現実の姿が、お子さんにとっての手本となる。したがって、子供に教育するということは、単に子供に教えるだけではなく、自分自身に教えるということにつながってくるというわけであります。
すなわち、口でどんなに立派なことを言っても、実際の親自身の行動が、その言っていることと裏腹であっては、鋭敏な子供にかえって人間不信の念を起こさせることになりかねない。子供は鋭敏であります。ゆえに、親自身が自らを教育し、自ら絶えざる成長をしていかねばならないのであります。
これはお子さんがいなくとも同じことがいえる。夫婦の絆の根源は、相互の尊敬にあります。その尊敬の心の起こってくるものは、ともどもに自己の成長を目指して努力していくところにあるわけであります。自身の成長のあるところに、常に新鮮な生きている喜びがあり、みずみずしい相互の愛情がわき出てくるものであります。
また、いわゆる知識やさまざまな技能にしても、現代は絶え間なく進歩して、発展している時代であります。それらに対して、無知であっては時代に取り残されてしまうし、そこに生きている主体性も失ってしまうでありましょう。ゆえに、時代、そして社会に対して主体性を保ちつづけるために、常に新しい知識の吸収を怠ってはならないと申し上げたいわけであります。
更に仏法のうえから教育について考察を加えますと、経文に「如我等無異」(我が如く等しくして異なること無からしむ)という意味であります。すなわち仏は衆生をして、内なる仏界を開かしめ、ぜんぶ平等に、自分と同じ境地、同じ境涯にしていくことに、その目的があるということであります。
これほど教育の本源をズバリと突いたものは、他にありません。人々のなかに平等の人格を認め、そこに一切の価値観をおいて人間形成を図っていくものこそ教育であります。また、内なる可能性の触発が教育の主題でなくてはならない。そこに知識も、技術も、身の宝として輝きわたっていくものであります。
また、仏法では、仏のことを「導師」導く教師ともいいます。この言葉自体、仏は衆生を見下したり、自分の配下と思ったりするのではなく、どこまでも、どこまでも一人一人の人間が最大限に、その人の持つ力を存分に発揮するように導く、との意味合いが込められております。このように仏法は、その理念と方法において、極めて教育の発想の原点ともいうべき内容をもっているのであります。
そこで私たちは、最も生涯教育をしていく事にふさわしい思想的土壌と、その実践のふんいきに恵まれているといっても過言ではありません。人間革命ということも、教育という側面からいえば、生涯教育という異名でもあります。まさしく私達こそ、自らの生涯教育を果たしつつ、社会に貢献していく為に、また模範となっていく時代が到来したと確信して、自覚して進んでいきたいと思いますけれども、よろしくお願い申します。(大拍手)

◆御書運動
最後に、日蓮大聖人の御書への姿勢ということについて確認しておきたい。
日蓮大聖人の御書を御本仏の言々句々と拝し、末法の経文として仰ぐことは、第二祖日興上人、第二十六世日寛上人以来、我が日蓮正宗の正しい伝統であります。創価学会初代会長牧口先生、第二代会長戸田城聖先生もまた同じ精神に立ち、御書を一切の原点とし、唯一の指南として広宣流布の実践に立たれたのであります。私は、創価学会は永遠にこの基本を見失ってはならないと、改めて強く訴えておきたいのであります。
日蓮大聖人ご自身は経文なかんずく法華経に対していかなる姿勢で臨まれたか。法華経の文々句々に文底仏法の光を当て、その意義を鋭く掘り下げた御義口伝をみれば、よくわかるところでありますが、経文の一字一句たりとも、決しておろそかにしておられなかった。
「一一文文是れ真仏なり」(御書全集一四八四㌻)と身をもって迫り、ご自身にとって何を意味するか、との視点から、厳しく対決しておられたのであります。というより、むしろ法華経の一文一句が真実であることを、ご自身の果敢なる実践をもって証明されているのであります。その大聖人の死闘があったればこそ、形骸化し、まさに死滅しようとしていた法華経が不死鳥のごとくよみがえり、時代に生きいきとした脈動を与えることができたのであります。
私どももまた、末法の経文である日蓮大聖人の御書に取り組む姿勢としては、この大聖人の御姿に深く学ぶべきである。恩師戸田城聖先生は、創価学会の教学の伝統精神を「剣豪の修行」と表現されました。まさしく教学とは、悩み苦しみながら、日蓮大聖人の御書を我が生命に刻み込んでいく戦いであります。教学は決して御書を自身の生命の外において読んでいくという姿であってはならない。わが己身のなかに御書を行ずべきであります。
御義口伝にいわく「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」(御書全集七〇八㌻)と。我々が「帰命」――命をもって自ら帰すべき対境を示された御文であります。根本的には、御本尊自体が人法一箇の当体でありますから、三大秘法の御本尊への帰命が「人・法」ともの帰命の極理となることは論をまたない。
しかし、あえて人と法とを分けられた元意に基づき「人法之れ有り」の意義を考えるならば、まず「法」への帰命とは御本尊への帰命であります。では「人」への帰命とは、今日いかなることを意味するか。もちろん、それは下種の御本仏、末法の主師親への帰命でありますが、その帰命を具体行動にあらわすについては、私は日蓮大聖人の教え、すなわち御書の体得こそが、「御義口伝」にお示しの「人」への帰命にあたると主張したい。それは、御書が日蓮大聖人の御命をつづったものである。すなわち、ご自身の生命に実証された法理を、しるしとどめられたものであるからであります。

◆自ら「慈悲」の体現者たれ
不滅の哲理をもった人は幸福であります。ひるがえって、今日の世相を見るに、人々はなんの拠(よ)るべきところを知らず、さすらいの日々を送っているというのが偽らざる実相ではないでしょうか。さすらいの人生には真実の崩れざる幸福の建設はありえない。やがて索漠とした暗いたそがれが、待ち受けているにちがいない。そのなかにあって、黄金のごとく朽ちることのない永遠の真理を刻み込んだ一書を持った我々の存在が、時代に大いなる光をもたらすことは必然の方程式であります。
諸法実相抄にいわく「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」(御書全集一三六〇㌻)と云々。
さきに法への帰命、人への帰命ということを申し上げましたが、「法華経の行者にてとをり」がその法への帰命にあたり、「日蓮が一門となりとをし給うべし」が人への帰命と考えられる。すなわち「法華経の行者にてとをり」とは、妙法を根底としての各自の社会での自発・能動の実践を貫くことであり、「日蓮が一門となりとをし給うべし」とは、永久に崩れざる異体同心の我々の同志の団結であります。その直結の原点が、日蓮大聖人にあることは申し上げるまでもない。
「日蓮と同意ならば」とは、日蓮大聖人の心、大聖人の御精神を我が心、我が根本精神とし、根本の師を大聖人とし、師弟不二の境地に立っていくことであります。そのときには外用の辺においては地涌の菩薩であり、もし外用において地涌の菩薩であるならば、即、内証においては「釈尊久遠の弟子」すなわち久遠元初の自受用身の本眷属であり、仏界に住する身であるとの仰せであります。
成仏といっても、彼方(かなた)にあるのではない。地涌の菩薩としての末法濁世に、妙法を弘通していくその実践のなかに、己心に顕現されていくものであります。地涌の菩薩とは、いちごんでいえば、社会のなかにあって大慈悲の行動を起こしていく人間像をいうのであります。その慈悲のしぶきをわき立たせていく根源力を、南無妙法蓮華経という大生命に求めたのが、日蓮大聖人の仏法であります。
御義口伝にいわく「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり」(御書全集七五八㌻)と。またいわく「涅槃経に云く『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦』と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く其れ日蓮一人の苦なるべし」(御書全集七五八㌻)と。
これらの御文を思うにつけ、恩師戸田前会長が青年へ指針を示された言葉が思い出される。「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」と。
この無慈悲と、私利私欲の邪智におおわれた社会にあって、慈悲の光を投げかけるためには、まず私どもが慈悲の体現者へと人間革命していかなければならない。それは民衆とともに歩む不断の自己変革であり、永久革命・永続革命であると、私は申し上げたいのであります。(大拍手)
終わりに、「天高く 君の翼に 光ませ 広布の虹に たどりつくまで」
と詠ませていただき、ともに皆さまの栄光の人生と、幸せに満ちあふれた一家和楽の生活を心よりお祈り申し上げて、私の話を終わります。(大拍手)


*音声データを元にテキスト化してあります。





2019年11月25日