
「折伏」の解釈が、当時の男子部の解釈と現代では違いますので、当時の男子部がもっていた本来の解釈を「のっとり屋、原田達を創価学会から追い出すために(5)~(6)」に書いてありますので、そちらを参考にしてお読み下さい。
副題『真実のご指導』
第17回男子部総会
諸君の手で一切の総仕上げを
(昭和43年11月17日 東京・日大講堂)
(LP音声)
「栄光の年」と、ともどもに命名したこの一年間、広宣流布の一つの上り坂を見事に上りきることができました。この険(けわ)しき苦闘の坂道を勇敢に切り開いてくださった諸君に対し、私は心より感謝するものであります。有り難うございました。(大拍手)
私は一年ごとに、諸君が師子王のごとく立派に、雄々しく成長していく姿を見ることが、なによりも楽しみであり、喜びであり、生きがいなのであります。どうか、来年の男子部の総会を目指し、更に友情のきずなを強め、再び広宣流布の一歩、偉大なる前進のため敢闘(かんとう)してくださることを切にお願い申し上げるものであります。(大拍手)
私は諸君の健康と成長をば、ただひたすらに大御本尊様に願いきっていく決心であります。
◆人材の建設、組織の建設、自己の建設
今日は懇談的に静かに語り合いたい。まず、はじめに来年度の年をなんの年とするかを諸君に相談したい。それは私どもの最大の念願であった、本門の戒壇たる正本堂の大殿堂も、昭和四十七年完成を目指して、いよいよ着工され工事が始まりました。まさに来年は、建設の槌音(つちおと)が高らかに鳴り響くなかに迎える最初の年でもあります。また、小さいながらも創価青年会館・創価大学・聖教本社も、そして幾多の文化会館も建設されていく年でもあります。なお、私はかねてより「青年とは建設なり」ということを主張してまいりました。そこで「青年の年」とするとともに、人材の建設・組織の建設・汝自身の建設の意義を含めて来年、昭和四十四年度は「建設の年」と名付けたいと思いますが宜しいでしょうか。(大拍手)賛成の人は手を上げてください。(ハイ!)
二十世紀に入って、今日にいたる現代史の流れを見ても人類は、過去二度にわたる凄惨(せいさん)な破壊に遭遇(そうぐう)してきております。第二次大戦終了後、世界の人々は、もう二度とこのような破壊は経験したくない、と考える。ただ未来にあるのは建設の喜びであると思われた時期がありました。しかし、今なお破壊の悲劇は幕をおろしてはいない。いや、ますます破壊の威力は高まり、もはや全人類の生存さえ脅(おびや)かすまでになっております。ひるがえってみるに、人類悠久(ゆうきゅう)数千年の歴史は、破壊のあとに必ず建設があり、破壊と建設の流転の歴史であったとも考えられる。核兵器の出現した現代においては、破壊は、もはや次の建設をともなわない。この地球上に、二度と再び建設の槌音が聞かれなくなることも十分予想されるのであります。この様な破壊と建設の流転の歴史、最終的な破壊に向かう歴史は、結局それ自体「破壊への歴史」であったといっても過言ではないでありましょう。この破壊への歴史を変えて、『平和と栄光の二十一世紀の世界の建設へ』と向かわしめることこそ、まさに現代に生きる我々に課せられた最大の命題なのであります。
◆本門の戒壇は人類の生命の座
今ここに、正本堂建設の槌音が、全世界に鳴り響きわたり始めたことは、時代そのものが破壊より建設へと向こう象徴であり原動力である、と私は深くしたいのであります。一閻浮提総与の大御本尊まします本門戒壇は、人類三十五億の「生命の座」であります。人類の、そして人類文化の新しい生命が、ここより、脈々と流れ始めようとしているのであります。また、我々の力で断じて流れ始めさせていこうではありませんか。(大拍手)
今、私どもの周辺には、破壊をこととし、暴(あば)れている青年もおります。我らの革命は、破壊にあらずして建設の革命であります。どうか諸君、建設という時代のリズムに呼応(こおう)し、汝自身の建設に、社会の建設に、新世紀の建設に全力をあげて、再び邁進(まいしん)していって頂きたいんであります。(大拍手)
◆信仰の対象は人格を左右する
先日、ある本にこんなことが書いてあった。著者は大学の哲学教授であります。いわく「キリスト教は、十字架が信仰の対象である。それは十字架にかけられ、血を流して死んでいった教祖の姿である。キリスト教徒は、そうした無残な教祖の姿を信仰の対象、すなわち本尊とすることによって、自然のうちに教祖であるキリストを、そのような目にあわせた異教徒に対する怒りと憎しみの念を助長させずにはおかない。現代文明の危機は、このようなキリスト教のつくった憎悪の人格が、非常に発達した科学技術と結び付いている点にある。これからの時代の宗教は、慈悲の教えである仏教でなくてはならない」こう述べております。私は決してキリスト教を批判するのではなく、一つの例として、引いたわけであります。もとより、この教授の想定している仏教は、釈迦仏法の範疇(はんちゅう)を出ないようではあります。しかし、一応、内外相対(ないげそうたい)のうえからいっても、この意見は正しいと私は思う。特に興味深く感ずるのは、本尊によって、それを信ずる者の人格・性質が影響されるという考え方であります。このことについては、諸君達は、仏教の感応妙(かんのうみょう)の原理として、すでによく知っておる通りであります。ヨーロッパの歴史をひもといてみれば、事実、結果としてキリスト教は、流血と、残虐(ざんぎゃく)の生命を呼び起こす、宗教であるといっても過言ではないように思われる。たとえていえば、初期のローマ時代には、幾多の民衆がキリスト教信仰の故に過酷(かこく)な弾圧をうけ処刑されております。くだって中世においては、十字軍遠征によって、幾多の青年が戦場に倒れていった。また異端(いたん)裁判と称して、たくさんの無辜(むこ)(罪のない意)の民衆が、残虐このうえないやり方で殺されております。中世から近世への転換に際しても、宗教戦争という大量虐殺(ぎゃくさつ)の悲劇が繰り返されてしまっている。更に、中世以降の植民地主義も、その根底には、アジア・アフリカの非キリスト教民衆は、キリスト教徒であるヨーロッパ人のために、どんな目にあわされても、それは当然のことなのだ、という考え方があったといわれる。更に、キリストを殺したユダヤ人を憎むということは、ヨーロッパの歴史を一貫して流れている現象であります。これらは、いずれもキリスト教の思想、なかんずく「十字架」という本尊が、民衆に感応し、それによってもたらした悲劇であるといえるかもしれない。
◆御本尊は宇宙の極理
いずれにせよ、本尊とは、必ずそれを信仰する人の生命に、強い、深い影響を及ぼし、その人格を決定づけていくものであります。本尊とは根本尊敬、すなわち、根本として尊敬するものとの意味であります。宗教は、信ずるという問題を体系化したものであり、したがって各宗教には、それぞれその信仰体系の極理・縮図、またシンボルとして各種の本尊があるわけであります。日蓮大聖人は、仏法の生命哲理・法華経哲学の究極の原理を、一幅の曼陀羅(まんだら)として顕され、これを本門の本尊とされたのであります。かつて戸田先生は「御本尊は幸福製造機である」と例えをもって教えられた事がありました。ちょうど、一台のテレビが、電気工学・電磁理論のいろいろな原理を応用して作られるように、御本尊は、生命のあらゆる原理を体系化し、縮図して、ただ一幅の御本尊として顕されているのであります。テレビに使われている電気工学、電磁理論の全てを分かる様に説こうとすると、かなりの分量の本になる。同じく、御本尊の原理、哲学的裏づけを一切を説くとするならば、それはまさに膨大(ぼうだい)なものになることは必定であります。御本尊の一大秘法を開けば三大秘法となる、その三大秘法が更に六大秘法に広がり、そして、最後は八万法蔵となる、というのは、この道理をいうのであります。すなわち、八万法蔵、更には一切法といっても、全て大御本尊の説明であり、せんじつめれば、一切法は御本尊に帰着するのであります。そして、あたかも理論や原理はわからなくても簡単にテレビを扱えると同じように、たとえ仏法哲理の何であるかは知らなくても、ただ純真に御本尊を抱きしめ、題目を唱えるという実践によって、御本尊の力は現実の生活のうえに、歴然とあらわれてくるのであります。このように御本尊を機械に例える事はもったいない話ではありますが、御本尊こそ、日蓮大聖人の大生命哲学の極理であり、まさしく三千年にわたる東洋仏法の真髄(しんずい)なのであります。私どもの信心、仏道修行というのも、所詮、この御本尊を心より信じ、心豊かに題目を唱えて、生涯、この妙法を受持しきって、社会、人生の価値創造、すなわち、一切の平和と幸福への建設に生ききっていくことにほかなりません。日寛上人は「観心本尊抄文段」の最後の結論のところで「我れ等此の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と仰せられております。御本尊を信じ、題目を唱えていくならば、我が身がすなわち、事の一念三千の御本尊の当体となり、もったいなくも、日蓮大聖人の生命と顕れるとの仰せであります。したがって本当に大御本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)していくならば、大御本尊と同じ力、日蓮大聖人と同じ力が湧(わ)いてくるのであります。故に、一切の人生活動にあって、また厳(きび)しき社会構造にあって、解決できない悩みは絶対にない、というのが大聖人の仏法なのであります。(大拍手)
結局、汝自身の当体が無上の宝珠(ほうじゅ)たる御本尊そのものである、というのであります。汝自身の当体が、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の御生命であるとは、なんと喜び身にあまる仰せでございましょうか。これ以上の生命の尊厳、これ以上の人間主体の確立、これ以上の福運と栄光に満ちた人生は絶対ないと私は言いたいのであります。(大拍手)
◆大願とは御本尊の流布
私は、きたるべき二十一世紀は「生命の世紀」であると主張してまいりましたが、 この「生命の世紀」とは、とりもなおさず、生命の本源を顕された三大秘法の御本尊が、全世界に流布する世紀であるとの意であります。今、世界を覆(おお)っている憎悪と抗争の暗雲も、これを打ち破り、吹き払う根源は、御本尊の流布以外には断じてない。この妙法の太陽に燦々(さんさん)と照らされた世界の樹立(じゅりつ)こそ、苦悩に沈む全世界の民衆に、真実の幸福をもたらす究極の大道なりと私は確信したいのであります。(大拍手)
私どもは、法華流布、すなわち本尊流布を大願として、この世に出現した地涌の菩薩であります。この大願を忘れて我が人生の意義はありえないし、この大願を自覚して、一生涯、法華流布という今世の使命達成のために、一直線に私とともに勇ましく前進しきっていって頂きたいんであります。(大拍手)
「起(き)は是れ法性の起・滅(めつ)は是れ法性の滅」(生死一大事血脈抄 御書全集1337㌻)との御文があります。起すなわち起きている、これはすなわち法性の起、滅していく、是れはすなわち法性の滅。秋の訪れとともに木々は色づき、枯れた葉が散っていくのも、冬が過ぎ去って再び春がきたり、新しい芽をふき、やがて緑の葉を茂らせていくのも、全て南無妙法蓮華経の働きであります。私ども人間生命の有為転変(ういてんぺん)、生死起滅(しょうじきめつ)も全て南無妙法蓮華経の作用にほかならない。この変化し、流転(るてん)させる本源の法――それを多くの哲学者・哲人・思想家達はなんとかしてとらえようとし、さまざまに思索してまいりました。だが、全て抽象的な「神」だとか「真理」だとかいうのみであって、ついにその実体を真にとらえた人はない。ただ、日蓮大聖人御一人が、この本源の法を悟(さと)り究(きわ)められ、それを具体化して大御本尊として、顕されたのであります。私どもは御本尊を受持し、信じて南無妙法蓮華経と唱えることにより、この大宇宙、生命の本源の法と境智冥合することが出来るのであります。すなわち生命の法則、大宇宙のリズムにかなった生活になっていく。我が身がそのまま南無妙法蓮華経の当体と顕れるのであります。故に「起は是れ法性の起」――すなわち一切の願業・欲望・理想を実現し、達成していくことができる原理であり、願いは全部かなっていく方程式である。また「滅は是れ法性の滅」――どんな悩み、苦しみ、過去無始以来の罪業も滅しないわけは断じてない、「罪として滅せざるはなし」の法力が厳然と現われてくるのであります。これを今度は社会、世界に約すならば、戦争や飢餓(きが)や、貧乏等の悪は妙法流布によって滅することができる。そして真実の平和と、豊かな恵まれた幸福世界を樹立していくことができるとの原理であります。この「起滅」の現象を起こしていく究極の当体は、ただ三大秘法の大御本尊以外には絶対にない。これを堅く信じていただきたいのであります。そして、本尊流布にあって、誰人が批判し押えようが、後世の人類が必ずや、必ずや、心より感謝することを確信して、更に幅広く、団結を深くして、秩序ある大行進をしていこうではありませんか。(大拍手)
次に、いつも申し上げていることではありますが、将来の指針として五項目に要約して、ひとこと申し上げたい。
その第一に『広宣流布は、今や名実ともに総仕上げの段階に入っている。かかる重大な驚異すべき時は、過去の歴史にかつてなかった。今こそ、この「時」を肝(きも)に銘じなければならぬ』ということであります。
今から十七年前の秋、昭和二十六年九月、恩師、戸田城聖先生は、当時の我々青年部員に何をいかになすべきかという指針を「青年訓」としてくださった。その冒頭(ぼうとう)で先生は叫ばれたのであります。それは有名な「新しき世紀を創(つく)るは、青年の熱と力である」と 。
「新しき世紀」とは、広宣流布達成の時にほかならない。今、正本堂建立の鎚音高くこだまする時、新しき世紀の幕が開かれてる事は目前であります。 これを自覚するとき、歓喜と緊張をもって「勝って兜(かぶと)の緒(お)を締(し)め」て、凛然(りんぜん)として最終の、そして新たなるスタートについていただきたいんであります。(拍手)
ともかく、青年部諸君の真の熱と力とを、各部署において思う存分に発揮すべき時であると私は言っておきたいんであります。そしてホームストレッチにあっては、いかなる、ささいな蹉跌(さてつ)もあってはならない。かかる「時」の重大さをよく知っていただきたいんであります。
詮(せん)ずるところ、日蓮大聖人の妙法が、断じて虚妄(こもう)でないことを、古今東西にわたって実証する時である。ともに牧口先生、戸田先生をはじめとする、幾多の先輩の苦難を、ことごとく実らしていく時であるという決心で進んでまいろうではありませんか。(大拍手)
第二に『妙法の革命児はいかなる魔にも勝たなければならぬ』ということであります。
古来、数千年の人類の歴史における全ての革命は、苦難に耐えつつ、勇断(ゆうだん)をもって勝ち取ったが、魔ととの戦いを敢行した者はいつもなかった。したがって、流血の悲惨を生み、同胞の策略をともない、また革命が成就した社会も「夢見た理想の社会」とはならなかったのであります。
妙法による私達の偉大な宗教革命の実践は、全ての革命が意図して達成する事が出来なかったものまでも、達成することが出来るのであります。それは、所詮、魔との戦いを根本としているからであります。私達の革命は、この意味において、本質的に、いかなる過去の革命にも似ていないのであります。よって、前代未聞の偉大な誇り高い革命と言わなくてはならない。
されば、己心(こしん)の魔に打ち勝つことなくして、どうして妙法の革命児と誇ることが出来ようか、と申し上げたいんであります。(拍手)
社会の魔を、まさしく魔として見破る眼力なくして、どうして妙法の革命児として自負することが出来ましょうか。
妙法の利剣をみがきにみがき、現代社会の一切の苦悩に精通して、恐るべき魔との戦いに凱歌(がいか)をあげるには、着実にして果敢な折伏の怒濤(どとう)の如き実践しかないことを知るべきである、と申し上げたいんであります。(大拍手)
第三に『広宣流布といい、宗教革命といい、第三文明建設といい、また王仏冥合の実現といい、 全ては妙法を種として種としての壮大な実現である。折伏を等閑(とうかん)に付しては一切は無に帰する』ということであります。
我が日蓮正宗、創価学会の偉大な存在理由は、仏意によるものであります。折伏なくしては、存在の理由をたちまち失のうことは自明であります。
様々な多角的にして実態的な戦いの分野において世間の風におかされ、一身の虚栄や栄達に身をまかし、折伏精神を忘却(ぼうきゃく)するならば、一瞬にして仏の行(ぎょう)を凡夫の行にすり替えたことになってしまう。
それは獅子身中の虫となり、永遠の破滅を招くことになるでありましょう。
青年部諸君の未来に輝く栄光の人生は、とりもなおさず、折伏精神の実践こそが、すなわち、慈悲に満ちた仏の子としての信行学の実践のみが、もたらす事になると確信していただきたいんであります。その実践は、厳しくも、また暖かく、地についた実践でなければならない、と申し上げておきたいんであります。
第四に『来たるべき世紀の主体者は、若くして妙法を受持する、今の青年諸君である』ということであります。
私も会長就任、来年は十年を迎えようとしております。諸君への一切の訓練は終わったつもりであります。「卒業した」つもりでおっていただきたい。
十年といえば、中学三年・高校三年、そして大学四年、合計その十年と同じ様に考えていただきたい。したがって一切、私は将来は諸君で広宣流布の総仕上げをしてもらいたい、していただきたい、これのみが私のいつわらざる心境であることを知って頂きたいんであります。(大拍手)
諸君の主体は妙法である。してみれば妙法の組織を離れて、主体者と育つことは絶対にできない。組織に生き、組織を身をもって守り、和合僧の実践者とならなければならない。しかしながら私達のこの尊貴な組織は、広宣流布を容易にするための唯一の効果的な組織であり、全学会員の成仏のための組織であります。
断じて、威張るための組織でもなければ、なにかを強制するための組織でもない。また要領をつかう組織でも、卑屈(ひくつ)にへつらうための組織でも決してない。安んじて、はつらつと信心に励むための組織であります。
あらゆる団体の組織は官僚主義の悪弊(あくへい)をまぬかれることは出来なかった。どんな善意の組織も、それは主体が凡夫であったが故であります。
妙法を主体とする組織である以上、御本尊の前においては、妙法を受持する者は、ことごとく平等であるはずであります。慈悲広大の仏様は、決して差別を好まない。私達の組織に役職があるのは、成仏への脱落者をつくらず、幸福への直道を進み、強固な団結をもって魔ととの戦いに、ことごとく勝利するためである、ということを私は遺言として申し上げておきたいんであります。(大拍手)
第五に『未来に希望を実現する諸君の、確信に満ちた人生は、確信に満ちた信心より起こるものである』と申しあげたい。
信心にウソがあってはならない。惰弱であったり、虚飾があってはならない。いかなる難に立ち向こうとも、真面目に妙法を信ずる深さだけが、強さだけが、確信に満ちた人生を築くであろう、と私は申し上げたいんであります。
日蓮大聖人は、ご在世当時の範とすべき青年の一人、南条時光に次のようなお手紙をくださっております。「抑(そもそも)今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」と(御書全集1544㌻)。
広宣流布の水は、今、滔々(とうとう)として音高く流れ始めております。滔々として流れ始めた時代を迎えたともいえる。確信したい。青年部の諸君の一人一人の信心の水は、大河となって、全ての三障四魔を破るべき勢いをもって流れていくでありましょうし、流れきっていって頂きたいんであります。(拍手)
それには一人一人の、この信心の水の流れが大事である。一人一人の信心の水の流れを断じて止めてはなりません。
現下の世界にあって、多くの前途ある青年が、惜しくも妙法を知らず、現代社会に対する矛盾と不満から、自ら破壊のための起爆剤として身をさらしてしまっている。これこそ末法の様相、極(きわ)まれり、というべきであり、広宣流布の近きを示す瑞相(ずいそう)ではある、と私はみたいのであります。(拍手)
妙法を主体とする青年部の諸君! 来るべき新世紀の建設の大舞台に、私と苦楽をともにし、再び精魂(せいこん)をかたむけて戦い進んでください。(大拍手)
最後に、日達上人猊下のいよいよご健勝であられますことを、全信徒に代わって心よりお祈り申し上げ、我が愛する弟子、実質の学会の後継者である諸君の人生の前途に、栄光よ輝きわたれと念じつつ、私の話を終わります。(大拍手)
(1968.11.17 第17回男子部総会 東京・日大講堂)
*音声データを元にテキスト化してあります。






