それは4番目に位置する次の言葉です。
***双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。***
双方がこの文面通りの社会構築を目指すのであれば、私たちが目指していた第3文明の社会形態により近づく話です。
あとは共産党が党綱領より武力を取り除き、議会制民主主義を基本とする日本共産党になりさえすれば、私たち公明党との協力関係で自由民主党・日本社会党に変わる第3極の勢力が出来上がり、日本の政治を大きく変えるということが、実現可能に思われたのです。
私は本当に心躍りました。池田先生の視野はどこまでも広く「私たちが進むべき道を」切り開いて下さっている。 との感動でいっぱいでした。
先に話した元共産党員が、池田先生の平和思想に気付き、創価学会に入会したという私なりの体験もあり、創価学会員と日本共産党員との交流が盛んになれば、必ず私たちの人間尊重・生命尊厳を基本に考える中道主義の考え方を理解し、共に歩んでもらえるという確信がありました。
しかし、創共協定成立後、事もあろうに池田先生の広い考えが分からず、創価学会執行部と公明党は創共協定破棄に動いたのでした。
そして池田先生は創価学会執行部の中で孤立し、卑怯にも公明党は、僧俗和合で確立していた宗門に、昭和50年池田おろしを悪しき言葉で呼びかけ、それに騙された宗門は、翌年の昭和51年から全国的に池田おろしの大合唱を始めたのです。
この公明党の悪行を知っていたにも関わらず、当時の私は力弱く、何も出来ませんでした。 本当に、本当に悔しかったです。
そして昭和54年、池田先生は、創価学会第3代会長をお辞めになってしまったのです。
この時の記者会見に同席した公明党の矢野絢也(やの じゅんや)は、ニコニコと勝ち誇った顔で記者会見に出ていました。
一方、池田先生は本当に疲れ切った顔で記者会見に臨んでいました。
私はこの時の悔しさを忘れまいと、この後に撮ったと思われる池田先生の疲れ切った表情のお写真を、今でも仏間にお飾りしてあります。
参考に、この時取り交わされた創共協定を以下に掲載します。

***日本共産党と創価学会との合意についての協定(十年協定)】***
創価学会代表野崎勲(のざき いさお)と日本共産党代表上田耕一郎(うえだ こういちろう)とは、1974年10月末以来、数回にわたって懇談し、それぞれの組織の理念と性格、現在の活動と将来の展望、内外情勢などについて、広範かつ率直な意見の交換をおこなった。
その結果両者は、創価学会と日本共産党とが、それぞれの組織ならびに運動の独自の性格と理念、さらに立場の違いをたがいに明確に認識しあい、相互の組織と運動の独立を侵さないことを前提とした上で、日本の将来のため、世界の平和のため、そしてなによりも大切な日本の民衆、人民のために、それぞれの組織を代表して、下記の事項について合意した。
(1)創価学会と日本共産党は、それぞれ独自の組織、運動、理念をもっているが、たがいの信頼の関係を確立するために、相互の自主性を尊重しあいながら、両組織間の相互理解に最善の努力をする。
(2)創価学会は、科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない。日本共産党は、布教の自由をふくむ信教の自由を、いかなる体制のもとでも、無条件に擁護する。
(3)双方は、たがいに信義を守り、今後、政治的態度の問題をふくめて、いっさい双方間の俳論中傷はおこなわない。あくまでも話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は、協議によって解決する。
(4)双方は、永久に民衆の側に立つ姿勢を堅持して、それぞれの信条と方法によって、社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために、たがいに努力しあう。
(5)双方は、世界の恒久平和という目標にむかって、たがいの信条と方法をもって、最善の努力をかたむける。なかんずく、人類の生存を根底からおびやかす核兵器については、その全廃という共通の課題にたいして、たがいの立場で協調しあう。
(6)双方は、日本に新しいファシズムをめざす潮流が存在しているとの共通の現状認識に立ち、たがいに賢明な英知を発揮しあって、その危機を未然に防ぐ努力を、たがいの立場でおこなう。同時に、民主主義的諸権利と基本的人権を剥奪し、政治活動の自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃にたいしては、断固反対し、相互に守りあう。
(7)この協定は、向こう十年を期間とし、調印と同時に発効する。十年後は、新しい時代状況を踏まえ、双方の関係を、より二歩前進させるための再協定を協議し、検討する。
1974年12月28日
創価学会代表総務長
野崎勲
日本共産党代表常任幹部会委員
上田耕一郎





