池田先生の平和理念を真剣に勉学している同志であれば実質上、憲法9条を破ってしまったイラク特別措置法が、国会において議論された時点で、党執行部の政策に対して激しい反対の声が上ってしかるべきです。しかしその声も聞こえませんでした。
あの時の地方議員の行動といえば、公明党中央より発刊された創価学会員騙しの、後方支援(兵站)の正当性を説明した”小冊子”を片手に、会員説得に動いていたのです。
私のような壮年部員の何人かが、憲法違反の法律案に強い反対の意見の声を上げているのにもかかわらず、いっこうに耳を傾けようとはしませんでした。
何故この様な愚かな政党になってしまったのか?を考える時、第3代会長であった当時の池田先生は、何度も、何度も同じご指導をされていた事を思い返します。

先生は「青年は厳しく政治を監視していきなさい」と、そして「政治とは汚れた世界です。策略・偽り・陰謀が渦巻く世界です。初めは高い理念をもって政治の世界へ入っていきますが、いずれ汚れていきます。その汚れを取り除いていくのは、君達青年の厳しい監視の目です。そしてその監視は、政治家や政党の言葉を信じるのではなく、その動向と結果を見極めていきなさい」と私達を指導されていました。またこの時、その志を持つ若き青年の同盟を提唱されました。
そこで私達全国の同じ志を持つ創価学会男子青年部は、池田先生の呼びかけにお答えしようと1969年10月、東京代々木公園で開かれた学生同盟の結成大会に合わせて参加し、「濁りのない青年の心で厳しく政治を監視していこう」と、学生部と共にシュプレヒコールをあげ、政治を厳しく監視する志の同盟となる「青年政治連盟」の創設を力強く宣言しました。この時集まった同志の数は、会場となった代々木公園から溢れ出んばかりに集い、報道発表では7万人を越える大集会となっていました。
しかし、この時集った同志は何故、これまで大きな声を上げる事が無かったのでしょう?本来であれば、あのとき立ち上げた「青年政治連盟」が機能し、地元の公明党組織に対して中道政治で行くように苦言や助言をしていれば、現在のように腐れきった政党にはならなかったと私は思っています。
私は公明党員を辞めた時点で、国政選挙での公明党には一切投票をしていませんが、地方議員の中からは中道政治の理念に立ち戻る事を信じて、私なりに憲法9条を崩壊させる最後の踏み絵となる「個別的自衛権」を容認してしまうまでは支援し続けていこうと決めていました。
何故なら、いずれ池田先生の平和思想を学習している下の地方議員から改革の大きな声が上がり、腐れ切った公明党国会議員への大変革運動が湧き上がるものと信じて、公明党を見放すことができなかったからです。
私なりの勝手な考え方ですが、おそらく池田先生も第一線から降りられるまで、公明党を否定しなかったのも、同じようなお気持ちではなかったのかと推察しています。
しかしながら、あろう事か、個別的自衛権容認を通り越して2014年7月に「集団的自衛権」までも容認してしまうとは…。
本当に心底腐れきった政党になってしまったものです。
私は翌年の安全保障法案成立まで粘り強く、地元の公明党の市・県会議員に抗議をし、本来の公明党結党理念に立ち返るよう説得をしましたが、県会議員の〇〇さんは集団的自衛権容認の正当性の説明に「パワーバランス」が必要である事を強調してきました。
驚いて、私は彼に「そのパワーバランスと言う言葉を出して説明することに、あなた自身は違和感を感じませんか?」と尋ねたところ、彼は不思議そうに「え…何でですか?」と答える始末です。
彼は創価大学を卒業した人で、平和学を学んできた筈ですが、「武力の均衡によって平和が保たれること」を説いた事に、何の違和感も疑問も感じてはいませんでした…。
創価学会第2代会長である戸田先生が、公明党の前身である公明政治連盟を立ち上げざるを得なかった大きな要因が、武力を否定して、平和を希求する憲法である「憲法9条」を、なんとしても守り抜きたいという一念からだったという事をまるで知らないかのようでした。






