つくられた国際緊張(1)

1960年代にマスコミや著名な知識人の強い反対を押し切って池田先生が呼びかけられた日中国交正常化が、1972年9月に田中角栄内閣によって実現し、それまで続いていた険悪な日中関係が緩和され、その関係は長らく続きました。

互いの経済交流も盛んになり、今や貿易においてはアメリカとの関係をしのいでいます。

その中国が何故、日本の脅威と考えられるように成ってしまっているのか。

その始まりは、PKO派遣法の成立にあると私は考えます。

日中国交正常化が実現した後の鄧小平体制の中国は、軍縮を実行し、わずかに装備の近代化をするのみでした。

しかし、1992年にPKO派遣法が成立すると中国外務省は日本政府に対して、「強い嫌悪感を感じている」と声明し、その後の中国は、海軍を中心とした軍備拡張を始めたのです。

このPKO派遣法の成立について日本の当時の世論は、「必要最小限の武器で国連の平和維持活動に従事する日本の自衛隊を出すという事は国際貢献であり、日本がこれから進むべき道です」との政府与党の言葉を信じ、このPKO法案の成立を許してしまったのです。

かっての大戦で大きな被害を与えてしまった隣国中国や、その他の国々の国民感情を無視して再び日本が、海外で軍事展開をできる国になってしまうのか、という懸念を抱かせてしまったのです。

このPKO法案が台頭してきたきっかけは、第一次湾岸戦争での「日本は金を出すが血を流さない」というアメリカ側の批判に対して、その批判を少しでも避けようと生み出されたものと考えられています。

しかし、これらの日本に対しての批判は、1970年代にアメリカの国防政策で考えられていた、アジア周辺に緊張を持たせるという戦略を実行したに過ぎません。

当時のヨーロッパでは、ソビエトを中心としたワルシャワ条約機構と、アメリカを中心とした北大西洋条約機構(NATO)の緊張が極限にまで高まり、いつ核戦争がおきるか判らない状態を緩和させるために考え出されたものです。

そして1991年にソビエト連邦が崩壊し、これまでのイデオロギー対立による世界の緊張が緩和されると思われましたが、アメリカの産軍学共同体は新たなる仮想敵国として中国に狙いを定め、周辺国を刺激し始めたのでした。

互いの国の緊張と戦争によってのみ利益をむさぼれる産軍学共同体は、彼らの生き残りの為には、世界の緊張緩和と平和な国際関係になる事が最も恐ろしい敵であり、彼らの死を意味するのです。


(次回へ)








      

2017年03月14日