犯罪的裏切りの創価学会「会憲」③

副題「同志SGIへ呼びかけます」

「宗教」といわれるものを信じ信仰してゆく、その理由の大半は自己の幸せや家族の幸せを願っての事だと思います。そして、おおよその宗教は創価学会の中で教えられている「利他」と同等の考え方を教えています。宗教の中でも代表的な宗教とされるイスラム教やキリスト教でもそうです。

イスラム教のコーラン(創価学会に例えれば御書)の中には、ボランティアの考え方の発祥とも言われている「富めるものは、力の弱い貧しき者を救っていかなくてはならない」との教えがありますし、キリスト教では、「汝の隣人を愛せよ」と教えられています。

このように人々の幸せを願う宗教がなぜ、これまでの歴史の中で互いに憎み、殺し合う争いを繰り返してきたのでしょうか?

それぞれの宗教をそれぞれ個々に信仰していれば、互いに憎しみ殺し合うことなど皆無に等しいのではないかと、私自身は捉えています。

現在、私たちが暮らしているこの日本において、宗教の数は数多くありますが、憲法において信教の自由が保証されている関係上、オウム真理教などのような閉鎖的で一般社会からかけ離れた異端的な理念を持つ宗教でない限り、意味嫌われる事はなく、それぞれが自分の幸せのために信仰しています。

しかしその信仰が「個人の信仰」から「組織の信仰」→「教会の信仰」→「一国家の影響を強く受けた教会の信仰」と、その信仰形態が変わることによって、人類は様々な不幸の歴史を繰り返してきているのです。

信者は自分自身の幸せを祈るのではなく、組織や教会の名誉や拡充を望んで行動することが、自身の幸せにつながると思い込み、誤った指導者の言葉を信じて行動し、不幸の歴史を繰り返して来ているのです。

教祖や聖職者という責任ある人の不本意な一言や、自己の理念を押し通すための強引な指導が、信者を迷わし社会を混乱に落とし入れて来たのです。人々を幸せにするための宗教が、指導者の過ちによって多くの不幸を生み出す歴史を繰り返してきているのです。

イスラム教のコーランの中に、異教徒に対してどのように対応すべきかを書かれた教えがありますが、「互いに分かり合うまで対応をしていきなさい」との教えがあります。しかし、ISIL(アイシル)などのイスラム原理主義者と呼ばれる人々は、武力によって自分たちが想い描いた国家を造っていくとの誤った理念のもとに武装闘争をし続け、世界に大きな不安と不幸を導き出しています。

また現在、核開発問題で揺れているイランにおいても、イラン革命直後の1989年にイスラームを批判した本の「悪魔の詩」の著作者や発行に関わった者に対し、イラン最高指導者ホメイニ氏が発した死刑宣告(イスラム法ファトワー)の影響を受けて、世界中で10数名の死傷者を出しています。

日本においても、1991年7月11日この本の日本語翻訳者であった茨城県筑波大学助教授の五十嵐一(いがらし・ひとし)さんが、同大学のエレベーターの中で刺殺されました。私の思い込みの範囲かもしれませんが、イラン国の影響力のあるイスラム教信者の犯行だと推測しています。

五十嵐一さんはおそらく、戦後の日本国内で育った方なのでしょう。多宗教の国と言われる日本においては、ひとつの宗教を多少なりとも侮蔑しても、罵声や脅迫じみた事はありますが殺人に至ることなどほぼ皆無ではないかと思います。イラン国内でのイスラム教最高指導者が発した死刑宣告がまさか日本国内にいる自分に及ぶとは思ってもいなかった為と思いますが、何の用心もなく警察に保護願いも出していませんでした。

この様な事については前回の、犯罪的裏切りの創価学会「会憲」②でも次のように説明しました。

▼古来より宗教には「他を排斥」しようとする力が内在している。
この武力によって「他を排斥」するという考え方はイスラム教やキリスト教のみに存在するものではなく、多くの宗教が持ち合わせてきています。私たちが信じて信仰している仏教においてもそうです。

末法の御本仏である日蓮大聖人様が御出現される以前の爾前経(にぜんきょう)の教えでは、法華経を侮蔑したり批判したりする行為は法華誹謗(ほっけひぼう)となり、最も重い罪とされています。そして法華誹謗をした者を滅する事、つまり殺すことが功徳とされていました。

日蓮大聖人様御在世当時の社会を乱していた僧兵も、この教えから認められていた武力集団です。

私が恐れるのは、広布第一章の共生と拡充の中で行われた折伏活動で、罵声は当然な事ですが、防火用水の水をかぶせられたり、多少の暴行を受ける事などは日常でした。これらの事は宗教上の難と受け止めてさほど気になりませんでした。

しかし海外では、日本国内においての宗教活動の環境とは違い、国外において日本の環境がそのまま通用するとは思えません。様々な国で、それぞれ特定の宗教団体の影響を強く受けた人々が散在しています。他の宗教を信じて信仰している人が、どのような教えで行動し、どのような対応をして来るのか判りません。

これらの問題を考慮に入れず、信濃町の創価学会を世界の総本部と定め、会長を頂点とした組織構築を図り、SGIを会長の指導下に置いた組織体制をとり、これを統理(意図する方向に統制)するとはなんという無責任さか。世界中にいる同志SGIを、日本の創価学会のひも付き信仰という危険な環境におくとは何たる傲慢な裏切りの悪鬼共か(怒)。

このような輩が、牧口先生・戸田先生・池田先生の三代にわたる広宣流布の大指導者が身命をかけて築いてきた、私たちの創価学会に君臨しているとは…。絶対に許すことが出来ません。

池田先生は、宗教指導者の犯してきた過ちを次のように話されています。
「本来、人々が幸せになる宗教が、教祖や聖職者の愚かさにより、人々を迷わせ、逆に多くの人々を不幸にしてきました。それが峻厳(しゅんげん)なる事実です。教祖や聖職者といわれるものが信者の上に立ち、自身を権威付け、そしてその権威によって、自身が押しつぶされて、人々を不幸にしてしまう。」と話され、また次のようにも言われています。

「会長が上で会員が下。もし創価学会がそのような組織になった時、創価学会はもはや邪教です。邪教そのものです。」

と断言されていました。


(続く)









2019年09月16日