創価学会がアメリカ軍学の影響を受け始めた頃(9)


副題 「自分達の生命財産を守る為に厳しく政治の監視をするべきです」

スターリンは、集団的農業経営(コルホーズやソフホーズ)でなければソビエトの社会主義は成しえない、という考えの持ち主で、それを強く押し進め、ウクライナ地方の人々には、今までの最高の石高を税金として納めるよう命令しています。それに対し、この地方の責任者になった人達は「農作物は天候に左右されるものであって、最高にあげた石高を税金として定めるのは余りにも過酷な納税だ」と反対しました。この時スターリンは、すかさず、それらの反対を表明する責任者達を粛正していきました。

この様な中、多くのウクライナの人々は、これらの責任者が粛正されるのを黙って見過ごしています。

この時点でウクライナの人々が立ち上がれば、スターリンなどという権力者は淘汰されていたでしょうが、ウクライナの人々はいつ自分に被害が及ぶのかと怯え、立ち上がる行動はしませんでした。その結果、スターリンの厳しい税の取り立てを許し、歴史上では500万人とも600万人とも言われる人々の餓死者を出してしまったのです。

スターリンの悪政を見過ごさずに、ロシア軍に信頼されていたクロポトキンに、急ぎこの悪政を報告してさえいれば、スターリンの独裁など成立していなかった話です。

この頃、ソビエト連邦に加入していたチェコのチトー大統領は、スターリンの政策では無く、レーニンの意向(労働者を中心に富の分配を考える社会主義体制)を見事に実行していました。

チトー大統領は、チェコで最も仲の悪い民族をバルセロナの街に、隣り合わせで住み着かせ、同じ労働者として国民として差別の無い社会を造り上げていました。

(日本で例えていえば、徳川時代に各国の大名に雇われていた武士と下層階級の非民を東京都に隣り合わせで住み着かせさせていたようなものです)

チェコではチトー主義と言われ、大統領自身が大統領としての仕事を終えた後、油まみれになって他の労働者と同じように働き「たとえ大統領になろうとも大統領の役職は責任を持って進めますが、私は一般の労働者となんら変わりは有りません」と言って、一般労働者と混じって働いていました。

当時のチェコは優秀な自動小銃を生産していました。そこに目を付けた中国共産党が大量に武器を購入し、この武器により中国共産党は軍事力を拡大し、戦力的に有利になり、蒋介石の勢力を台湾に押しやっています。

当時のスターリンは「なぜ私の命令通りの公益をしないのか」という文句を、チトー大統領に突きつけましたが、チトー大統領は「私の国まで余計な介入をするならば、おまえに刺客を差し向けるぞ」と言ってスターリンを脅したと言われています。その為、チェコにはスターリンの悪政が及ばなかったのではないかと言われています。

レーニンによる社会主義建設の当初は、多少の私裕財産を認めていましたので、ウクライナ正教を中心に華やかな文化が咲き乱れ、ロシア革命後にウクライナ・ルネサンスという時代を迎えています。(日本人歌手の加藤登紀子が歌った「100万本のバラ」はこの頃ウクライナで作られた歌です)

ところがスターリンの出現によって、様々な知的人物の農業学者や教育者などが政敵とされ、次々に粛正されていったのです。まさに政治の悪政によって、多くの人々が殺されていきました。

このスターリン死後、ソビエトの最高指導者になったニキータ・フルシチョフ書記長が、大々的にスターリンの粛正主義を批判し、ソビエト社会では「会話によって行う政治」が始まっています。

ニキータ・フルシチョフ書記長も池田先生と親交のあったゴルバチョフ書記長も同じウクライナ地方の出身の政治家でした。

現在戦争中のロシアのプーチン大統領は紛争前、ウクライナを兄弟国として考えていましたが、アメリカのバイデン大統領の策略によってゼレンスキーが踊らされ、ウクライナ戦争が始まってしまいました。

*ニキータ・フルシチョフ書記長のスターリン批判やウクライナの歴史については、ロシア語翻訳家のBさんから聞いた話を元にしています。(Bさんは、ソ連とアジアの集団的安全保障を書いていたイワン・イワノビッチ・コワレンコの本を、日本語に翻訳していたスタッフの一人です)

(つづく)









2025年05月27日