
これは、以前に私と親しくお付き合いをしていただいていたK僧侶から聞いていた話ですが、K僧侶の話によると、「明治以降の大石寺は貧しく、地方の法華講からあがる僅かばかりのご供養で、慎ましい暮らしをしていましたが、それでも足らずに大石寺周辺の所有していた土地を売り払ってしまい、戦後には、山門から代々の猊下が眠っていらっしゃるお墓の先にある、五重の塔ぐらいまでしか残っておらず本当に貧しかった。実際に大石寺が整備され始めたのは、池田さんが会長になってからだった」と話していました。
1958年(昭和33年)に戸田先生の指揮のもと、私たち創価学会員が大石寺にご供養建立した大講堂が完成するまでは、本門とする板御本尊様がどのような姿なのか私たち信者には拝する事も出来ませんでした。
ようやく大講堂が完成して、雨や風を避けて勤行・唱題ができる環境が整ったとはいえ大講堂の造りは、まるで体育館に畳を敷いただけの粗末な造りであり、信者は中に入ると立ちながら並び、周りの人と肩を触れ合うほどすし詰めになった状態でそのまま正座して唱題を唱える状況でした。
それでも私たち信者には、畳の上で唱題が出来そして大御本尊様を拝する環境が出来た事に大きな喜びを感じていたものです。

その後戸田先生亡き後、創価学会の陣頭指揮を池田先生が執られるようになってからの大石寺の整備はめまぐるしく進み、大客殿の建設・大石寺周辺の土地の買い戻し・登山した信者が泊まる宿坊の建設整備・正本堂の建設、そして地方にある大石寺関連の寺に対しては、寺周辺の土地の購入や新しく寺を建てるなどの整備が進められていきました。
しかし正本堂の完成が近づいてくる頃には、大石寺僧侶の創価学会員に対する対応が怠慢になり始めていたのです。
私が初めて登山をした昭和30年初頭の頃の僧侶は、私たち信者が宿坊の中で唱題を始めると、進んで導師となってお題目を唱えていましたが、昭和40年後半頃には共にお題目を上げる姿を見る事など無く、僧侶のお題目を上げる姿が見られたのは、御本尊に拝する御開扉(ごかいひ)の時のみという状況でした。
このように僧侶の怠慢が目につく頃になると、池田先生は僧侶が同席する本部幹部会等の席上で、宗門へのご供養の意味づけを話され「私たち創価学会員が宗門に惜しまないご供養をするのは、三宝(*)の内の僧侶としての役目を実行しているからであり、若い御僧侶はそのお役目を果たしていただきたい」と、わざわざ若い御僧侶という言葉をつかい、宗門側の僧侶に対して苦言をしていました。
そして正本堂の完成が間近になる頃には、戸田先生の御構想でもあった、創価学会会館の整備も少しずつではありましたが進められていたのです。
戦後の創価学会の会合といえば、宗門のお寺を借りて行われており、会合が終わって帰る時には、お寺に少しばかりの供養をしたり、信心には関係のない行事(宗門の長年の習わしの中で行われていた節分等)にも参加せざるを得ない状況でした。
このような煩わしさから学会員を解放して、信心の研鑽に集中できるようにと、創価学会会館の整備を池田先生に託していたのです。
しかし1970年~80年代の創価学会会館といえは、現在のような立派な造りではなく、縫製工場などの古屋を買い受け、畳などをひいただけの粗末なリフォーム会館でした。
創価学会の会合が行われる場所が、お寺から創価学会会館に移行し始めると、宗門側から表立っての要求が入るようになったのです。
創価学会会館整備よりも宗門側のお寺の建設や整備を急ぐように迫ったり、創価学会の会合を極力お寺で行うようにすべき等の要求が出てきたのです。
(続く)
***補足***
三宝とは(仏)(法)(僧)の3つをいう。僧とは、仏の法を広める行者として実践行動している僧侶をいう。






