
池田先生は、なぜアメリカ(ヘンリー・キッシンジャー)の攻撃対象になったのか?。
ヘンリー・キッシンジャーの回顧録(ニクソン大統領の大統領補佐官時の1971年、隠密に行われた米中和平交渉)の中でも明らかになっている話ですが、米中和平交渉で中国側から、日本の軍事について懸念する意見が出ましたが、ヘンリー・キッシンジャーは「日本には在日米軍基地があり、我々が日本をコントロールしているので不安に思う事は無いです」と説得しています。
しかし、1972年の田中角栄内閣総理大臣がおこなった日中平和友好条約に向けての日中共同声明は、アメリカ側に了承を得ない田中角栄総理の単独行動であり、また続いて、1973年公式訪ソ(第2回平和条約交渉)、そして1974年には田中角栄とコスイギン首相の会談を実現しています。
田中角栄にしてみれば、自国の主権を行使したにすぎませんが、彼らアメリカ産軍学共同体にしてみれば、第33代大統領ハリー・S・トルーマンが発言した「日本をアメリカの隷属国家にすべきだ」との考えを継承し、彼等なりの統治技術によって日本をコントロールしていた、にも関わらず、それに反して田中角栄総理はアメリカにお伺いをたてずに、単独外交を行ってしまったのです。
この事にヘンリー・キッシンジャーは「日本をコントロール出来ていない、との強い嫌悪感を感じていた」と言われています。
これら、田中角栄総理がおこなった外交の重要なキーマンになっていたのは池田先生です。
1960年代にマスコミや著名な知識人の強い反対を押し切って、池田先生が呼びかけられた日中国交正常化であり、公明党を先遣として行動させ、田中角栄総理の日中共同声明を実現させています。
また、この行動が1973年の田中角栄の公式訪ソ、1974年の田中角栄とコスイギン首相の会談を実現させています。
それまでの日ソ間は、1956年に日ソ間の平和条約を鳩山一郎総理が実現させ、日ソ間の国交が正常化されると思われましたが、その後就任した岸信介総理が、日米軍事同盟となる日米安保条約改定条約を結び、ソ連側の強い反発を呼び、国交が断たれていました。
この様な環境の中で、1975年にヘンリー・キッシンジャーと池田先生との会談が行われました。

この会談の中で「あなたは頑固な平和主義者だ」と池田先生を評価していますが、それに至るまでの話の中で、おそらく彼は池田先生にアメリカと同じ平和的価値観を持つよう迫ったのでしょうが、池田先生は、仏法を根幹とした人間生命尊厳の平和理念を押し通したのでしょう。その為、融通のきかない先生を「頑固な平和主義者」と評価したと思われます。
この時代の世界は、アメリカとソビエトの両大国の緊張が高まり、NATOとワルシャワとの均衡が崩れ始めれば、それをきっかけに、いつ核戦争の第三次世界大戦がおきても不思議ではない時代でした。
アメリカは国策として、NATOとワルシャワ間の緊張を分散するために、環太平洋シーレーン構想を立ち上げ、日本に働きかけていました。
これはアメリカ・オーストラリア・日本を含めたアメリカ友好国の軍事上の集団的自衛により、ソビエトを中心とした社会主義諸国から太平洋上の貿易航路を守ろうとするものです。
一方で、田中角栄や池田先生と、ソビエトのコスイギン首相との会談を実現するために働いたイワン・イワノビッチ・コワレンコは、ソ連とアジアの集団安全保障の構想を立ち上げたソ連共産党中央委員会国際部課長で、特に極東を担当していた人でした。
彼はのちに、対日工作の回想の中で明らかにしていますが「アメリカ中心の日米関係ではなく、日本を中立的な国家にしよう」と、日本に働きかけていました。
このような現状を、アメリカ合衆国国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが何もしないはずはありません。
(続く)






