
池田先生は仏法を根幹とした社会変革を第三文明と名付け、王仏冥合(創価学会の変貌10で説明)の理念により、人間革命した同志が一人一人社会で花開いて社会を変革し、人間性尊重・生命尊厳・絶対平和主義の仏法理念を社会に広め、世界に広めていく大運動を第三文明の基本形態としました。
そして、この第三文明の大運動を展開することが池田先生の本来の道である広布第二章、と私は理解していました。
広布第一章は、戸田先生のひかれた共生による大拡充運動が、その主たる運動展開でした。日蓮大聖人の仏法に多くの人々を縁させ、同じ志を持った同志の研鑽の場である会館の整備、僧俗和合のための大石寺関連の整備、南無妙法蓮華経を本尊とした象徴の板御本尊を御安置するための正本堂の建立、これらの目標を7つの鐘と定め、7年毎に地道に一つ一つ達成させ、1979年(昭和54年)にその総仕上げの第七の鐘を鳴らし終わり、いよいよ池田先生がひかれた広布第二章に入る筈でした。
先生は、正本堂が完成した後の講義の中で、第七の鐘を鳴らし終わったあと、広布第二章に入るべく次のように話されていました「今や共生による大拡充運動はその完成を迎え、第七の鐘を鳴らし終わります。これからは、人間革命をした一人一人が社会を変革してゆく、大社会変革運動の時代であります」と話されていました。
しかし、第七の鐘を鳴らし終わる総仕上げの時に、本来であれば池田先生を補佐すべき3つの勢力の裏切りによって、広布第二章の前進を阻まれてしまったのです。
1つは公明党の裏切り(創価学会の変貌1で説明)、もう1つは創価学会最高首脳部の裏切り、更にもう1つは宗門の限りない欲望による裏切りです。

欲望は、人間が生きてゆく為には必ず必要な心の作用です。
・自分自身を良き方向に変革したい。
・病気を治したい。
・一家和楽の家庭にしたい。
・我が子は立派に育ってほしい。
・安定した仕事につきたい。
・人々の為に働きたい。
等々、例え上げればきりがありませんが、飛鳥時代に最大の勢力を持ち、あらゆる物を手にしていた蘇我馬子(そがのうまこ)が、「欲望とは、満たされても、満たされても、なお欲くしてしまい、永遠に満たされる事はない」と言っていたそうですが、物欲・金欲に強く執着した人間には、善も悪もたいした問題ではなく、ただ自身の欲望を満たすために行動をします。
私たち創価学会員は池田先生と共に、戸田先生がひかれた広布第一章の僧俗和合を忠実に実行し、大石寺(宗門)には限りないご供養をしてきました。
池田先生が指揮を執(と)られる前の大石寺は、荒れ寺という言葉がピッタリと当てはまる状況でした。
大石寺は江戸時代、徳川の擁護もあって多くの寺社田を所有して大変裕福だったそうですが、明治時代からの国家による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)政策により荒れ果て、私が最初に登山した(1956年頃?)当時は、それはひどい荒れようでした。
地方に住んでいた私は、汽車を何度も乗り継ぎ、単線であった身延線に乗り、富士宮駅からの路線バスで1時間ほどの悪路の道を、ゆられて登山をしたものです。
当時の山門は、古ぼけた木質がむきだしの状態であり、塗装の跡形もありませんでした(人間革命の映画の中では朱赤色に染まっていましたが・・・)。山門をくぐると石畳の参道に沿って、六棟ほどの登山者向けの宿舎(宿坊)が建っていましたが、窓ガラスは割れ、外壁の板は所々腐り落ち、中に入ると廊下の床も気をつけて歩かなければ抜け落ちそうな状態でした。
大御本尊様も、宿坊を過ぎ石畳を少し先に進むと何段かの石段があり、その上に僧侶が二人ほど入れる小さなお堂があり、その小さなお堂の中に大御本尊様が御安置されていました。私たち信者は勤行・唱題を石畳の上に正座をして唱えていたものです。そしてこの当時は、お堂があまりにも小さいので中に入る事も出来ず、大御本尊様がどの様な姿なのかをも拝する事もできませんでした。
(続く)






